戦況の悪化で、警戒警報や空襲警報、敵機来襲警報におびえる毎日だった。一日に六回も七回も自宅近くの防空ごうに駆け込み、終戦前年の秋以降は学校(上長崎国民学校)にも行けない状態が続いていた。子供心に、戦争のない永世中立国のスイスに行きたくて仕方がなかった。
あの日もいつものように朝から警報が鳴り響いた。警報はしばらくして解除。防空ごうから自宅へ戻り、玄関前にたどり着いたその瞬間だった。金色や黄色、オレンジ色が入り交じったせん光が走ったかと思うと、辺りを揺さぶるものすごいごう音が襲った。
われに返った時には、体は五、六メートル離れた台所まで吹き飛ばされていた。新型の原子爆弾と知る由もなく、何が起きたのかさっぱり分からなかった。言い知れぬ恐怖をただ感じた。
その晩は母や兄たちと防空ごうで過ごした。夜、様子を見るため外に出て息をのんだ。(原爆が投下された)浦上方面の夜空がまるで夕焼けのように、真っ赤に染まっていたのだ。県庁方向に目をむけると、火の手が上がり、こちらに近づいてきているのが見えた。あの光景は今でも忘れることができない。
翌日の昼すぎ、近所のおばさんが変わり果てた姿で戻ってきたのを目撃した。全身水膨れのやけどを負い、だれだか分からなかった。焼けて肌にくっついた着物の柄で、かろうじて認識できたほどだ。長崎駅近くで被爆したという。
その後、近所に下宿していた長崎医科大(当時)の学生が正気を失った顔で帰宅した。肌があらわになった背中には無数のガラス片が突き刺さっていた。二人とも間もなく息を引き取った。
十五日、父親から「日本は負けた。もう戦争はないんだよ」と聞かされた。負けて悔しい気持ちはなかった。「これで夜、空襲におびえることなく布団でゆっくり眠れる。(敵機に感知されないための)灯火管制で、電気を消さなくていいんだ」。そう思うと、本当にうれしかった。
<私の願い>
力づくで相手をねじ伏せるのが戦争。人間なら話し合いで解決できるはず。平気で自分や他人を傷つける社会風潮にあるが、特に若い人たちには命を大切にしてほしい。