当時二十五歳。一九四二(昭和十七)年二月に旧陸軍を除隊後、郷里の大村で実家の農業を手伝っていた。
地元では警防団員として不測の事態に備える傍ら、週二回は、現在の郡中学校の場所にあった青年学校の指導員を務めた。十六歳から十九歳までの青年を相手に、肉体鍛錬や精神修養などを指導していた。
八月九日は、朝から畑の草取りをしていたが、多良山系の郡岳上空を、キラキラ輝きながら通過する機体を発見。フィリピンでの軍隊経験から、すぐにB29爆撃機だと分かった。
しばらくして“ドーン”と強烈な音が響き、長崎上空にモクモクと煙が上がった。郡岳で薪拾いをしていた父・文吉も、敵機通過に驚き家に戻ってきた。間もなく駐在所の巡査が、長崎が攻撃されたと教えてくれた。
午後四時ごろ「今夜九時前後に、松原駅で被災者八十人程度を収容する。加勢してほしい」と警防団長から連絡があった。団員の父や私は、何をしてよいか戸惑ったが、戸板などで急ごしらえの担架を準備した。
到着した列車内は、何とも言えない臭気が充満していた。被爆した人たちの皮膚は、やけどのため触ればズルリとむけた。皆「水をください」と懇願したが、軍医から「絶対に飲ませるな」と止められた。
駅から五百メートルほど離れた学校(現・松原小学校)の講堂に、二時間がかりで全員を移した。ほとんどが全身やけどで、自力で歩ける人は十五人ほどだった。講堂は板張りのため、婦人会がわらまくらを準備。軍医を手伝いながら一晩過ごした。
翌朝、海軍のトラックが三台来た。一台に七、八人、少しは話ができる被災者たちを乗せて行ったが、行き先は知らない。
いったん帰宅した後、十一日にも再び、被災者が駅に到着すると、警防団に集合がかかったが、下車する人はなかった。清掃のため立ち寄った講堂では、病院へ移送されたのか、既に一人の被災者も残っていなかった。(大村)
<私の願い>
悲惨な体験は、今も心に染み付いて忘れることができない。世界を滅ぼす核による戦争は、二度とあってはならない。世界中の人たちが平和に交流できるよう、あの日のことをより多くの人々に伝えなければならない。