一九四五年五月、長崎市の淵国民学校に教員として勤めていた私は防衛召集を受け、特設警備隊の伍長として同市田上にあった田上陣地で敵が茂木方面から上陸した場合に備え、防衛線となる溝を整備するなどの任務に当たっていた。三十歳だった。
八月九日は朝からいい天気で、私は敵機が近づいていないか上空(雲仙方面)を監視していた。午前十一時ごろ、南高愛野町上空に動く黒い点を発見。すぐに「あれは米国の飛行機ではないか」と思った。両翼に二つずつプロペラがあるのに気付き、B29だと分かったとき、とっさに身構えたのを覚えている。近くの防空ごうに飛び込み、監視を続けたが、B29はそのまま市内方向へ飛び去った。
それから間もなく、ピカッと、市内上空で閃光(せんこう)が走り、「ドン」という音を体で感じた。私は唐八景方面からの爆風に吹き飛ばされた。そのときは何が起きたのか全く分からなかったが、「これはおかしい」と思い、五分ほど伏せていた。午後零時十分ごろ、状況を調べに行った隊員から「市内は全滅」との報告を受けた。
翌日、隊長に許可をもらい、同僚と子供たちが心配で学校に戻った。学校や周辺の民家は焼けて跡形もなく、皮膚がめくれたり、乾燥して皮膚が骨に張り付いた死体がごろごろ転がっていた。浦上川には複数の死体が浮いていた。言葉では言い表すことができないほど悲惨な光景だった。犠牲となった同僚の家族の死体を同僚の城山の自宅庭で、燃え残りの木材を組み、焼いたのを覚えている。
終戦後除隊となり、二十二日ごろ、実家のある南高北有馬町に列車で帰った。実家に着いて一週間は激しい下痢が続いた。それでも八月末に長崎市に戻った私は、はっきりとした時期は覚えていないが、残った子供たちを集め、稲佐国民学校の教室を借りて授業を再開した。
<私の願い>
次の世代の人たちが平和に生活できるように、核兵器や戦争のない世界になることを願ってやまない。原爆を体験した者として、広島や長崎のような悲劇はもう二度と起こさないでほしい。