当時二十八歳。中国戦線から一年前に帰国し、南高国見町の神代警察署で巡査をしていた。
「あの日」、上司から「長崎が空爆を受けた。相当の被害と死者が出たようだ」と聞かされた。すぐに神代署と地元消防団で救助隊を組織し、救援に向かうことになった。同僚と一緒に消防やぐらに上ってみると、長崎の方向に巨大なきのこ雲が立ち上っており、何とも不気味だった。
翌日正午ごろに神代をたち、集合場所の長崎医大病院に夕方着いた。病院の裏手に防空ごうがあった。のぞいてみると、黒い人たちが大勢いた。よく見ると、全身にやけどを負い、肌が焼け焦げているのだった。その人たちが私を見て「兵隊さん、兵隊さん、水を、水を飲ませてください」と一斉に声を上げた。ひん死の人とは思えぬはっきりした声だった。
「すまない。すぐ水を探してくるから辛抱して頑張れ」と言い残し、水を求めて走り出した。だが、私は西彼外海町育ちで全く土地勘がない。むやみに歩き回るだけで水がある場所は見つからず、結局水は届けられなかった。
翌日から三日間、竹の久保や城山付近で遺体を処分した。黒焦げの遺体が無数に転がっていたので、五、六体を集めては、焼け残りの木材などを拾い集めて火を付け、焼いた。浦上川にはたくさんの遺体が浮いていた。水を求めて飛び込んだのに違いない。川に頭を突っ込み、そのまま息絶えた人も多かった。
真夏の照り付ける太陽、くすぶる焼け跡、そして残留した放射能の影響だろうか。とにかく暑かった。場所は忘れたが、ある変電所の近くでわき水を見つけて飲んだ。とてもうまいと感じた。
今でも悔やんでいるのは、あの防空ごうの人たちに水を届けられなかったことだ。「兵隊さん、水を…」というあの声だけは、頭から離れることはない。(大瀬戸)
<私の願い>
戦争は本当に恐ろしいものだ。戦争のない、平和な世界にしなければならない。日本は軍備を進めてはいけないと思う。たくさんの人を戦争に送った軍国主義はもうたくさんだ。