「広島におらんで助かった」。当時、二十二歳だったわたしは三菱広島造船所に勤務。その年の初めに肺結核を患い、長崎市豊後町の自宅で療養していた時に「広島に新型爆弾が落とされた」との知らせを聞いた。まさか、その三日後、長崎に「原子爆弾」が投下されるとは夢にも思っていなかった。
「あの日」の午前中は自宅に一人きり。三井物産長崎支店に勤務していた父は仕事に出掛け、母と弟三人は長崎市矢上町の農家に疎開していた。七つ下の妹は市内の兵器工場に学徒動員されていた。
早朝の空襲警報が解除されて一息ついていたころ、爆風で部屋中のガラスが飛び散り、家具が倒壊。気付いたら部屋の隅にはじき飛ばされていた。「何が起きたとやろう」。県庁方面から火の手が迫ってくるのを見ながら、父の勤務先までひた走り、二人で矢上の疎開先に逃げ込んだ。
翌朝、すぐ下の弟と二人で自宅に戻ると、自宅周辺は既に焼け野原。行方不明になっていた妹を捜しに市内を歩き回った。線路沿いには黒焦げの死体が並び、馬が立ったまま息絶えていた。ゴキブリを火鉢で焼いたような悪臭が立ち込め、吐きそうになった。
「この惨状では妹も死んでいるかもしれん」。そう思いながら、死体を一体一体確かめて歩いたが、黒焦げで男女の区別さえつかなかった。看護婦たちがひん死の人たちの治療に当たる中、医師が「どんな激戦でもこんな死に方はせん」と嘆くのを聞いて恐ろしくなった。結局、その日、妹は見つからなかった。
数日後、長崎市役所に張り出された生存者の一覧の中に妹の名前を見つけたと近所の人に教えられ、両親が大村の海軍病院などを捜し回った。それでも見つからなかったが、周囲の心配をよそに、妹はひょっこりと帰ってきた。
収容された嬉野の病院から、軍の車に乗せられて戻ってきたのだという。右腕にガラス片が突き刺さり、皮膚がただれたようになっていたが「生きていただけでも良かった」と思い、家族皆で喜び合った。
何日かして不意に歯茎から血が出てきて「死ぬのか」と思ったが、何とかこれまで生き永らえている。当時のことはあまり思い出したくない。戦争が終わっても、家族全員が生き残っていても、だれも「あの日」の体験を口にしようとはしなかった。「地獄」を見たからだと思う。
<私の願い>
戦争の本当の恐ろしさは、体験してみないと分からない。若い人たちには世界各地の戦争の悲惨さを見聞して、少しでも戦争の真実を理解してほしい。物質面の豊かさだけではなく、本物の平和を見極めてほしい。