当時は十六歳で、春に県立長崎高等女学校を卒業したばかり。卒業式では、生徒代表が卒業証書をもらった瞬間に空襲警報が出て、全員が避難して式はそれきりになった。
男性が出征してしまい、当時は教員不足。卒業後は代用教員として神ノ島小学校に勤めていた。授業中に空襲が始まり、子どもたちを避難させることも多かった。新米の私は、校長先生がうやうやしく、ゆっくり運んでいる天皇陛下の「ご真影」より先に避難してしまい、注意されたこともあった。
九日はどんよりと蒸し暑い日だった。朝からの空襲警報が解除になり、小瀬戸の自宅で母と二人、昼食の準備をしている時だった。空の高いところで爆音が聞こえた。
「B29かもしれんよー」。井戸端で近所の人と話している母に窓から注意した。「今、警報解除したばかりなのに。ああ、空に二機おるよー」と母が戻ってきて、家の戸をくぐった途端、すごい音がした。
閃光(せんこう)が先だったかもしれない。音は例えようのないものだった。この家に爆弾が落ちたかと思うほどで、私たちは押し入れに飛び込んだ。
稲佐山の向こう側が燃えているのが、空いっぱいの黒い煙で分かった。夕方までには「長崎の方に新型爆弾が落ちたらしい」「近所のだれそれが帰っていない」などの話が伝わってきた。夜になると長崎方面の空は赤黒い炎の色になった。
十八日ごろ「米兵が上陸してくる。女性と子どもは避難しろ」と指示があり、父の実家のある有家に向かった。工員を運ぶ船で香焼の川南造船所まで渡り、長崎港へ乗り継いだ。長崎駅まで歩く途中、虚脱したような表情で肉親らしい死者を焼いている光景をあちこちで見た。
いつ出発するのか分からない列車には、屋根の上まで人がびっしり乗り込んでいた。私の横には全身の皮膚がむけた人が、戸板に寝かされていた。何かが動いていると思ったら、全身にウジがうごめいていたので驚いた。
家が密集していた浦上地区は焼け野原になり、工場は鉄骨がむき出しで、あめをねじまげ、からませたようになっている。稲佐山は海に油が浮いたような鈍いにじ色に見えた。
有家に着いて一週間、下痢と嘔吐(おうと)が続いた。その後、特段の症状が出ないのは「あの時に毒素を体外に出したせいかな」と自分では感じている。最近開いた女学校の同窓会では「よくこういう年齢まで生きたねえ」とみんなで声を掛け合った。 (平戸)
<私の願い>
原爆被害、食糧難など、当時の状況はどんなに資料が残っていても、飽食の時代の人たちには伝わらないのではないかと、もどかしさも感じる。しかし、言い伝えていかなければならないという気持ちに変わりはない。