戦時中は海軍に所属し、南太平洋などでいくつもの戦線を乗り越えてきた。しかし、一九四四年に足と腕にけがを負い除隊。長崎市水の浦町の三菱重工長崎造船所の第一事務所に勤めていた。
あの日は天気がよかった。午前十時ごろ、敵機襲来で警報が鳴った。約一時間後、再び警報が鳴ったため、建物と建物の間を通って避難した。
突然、ピカッとせん光が走った。数分たってから、サアーと爆風が吹いた。事務所の窓ガラスはすべて割れた。周りを見てみると、ガラスの破片が刺さってけがをしたり、爆風で吹き飛ばされたりして亡くなる人でいっぱいだった。
私は幸い無傷だった。急いで防空監視所に上り、平戸小屋町や水の浦町など辺り一面を見回すと、民家のかわらはほとんど吹き飛ばされていた。浦上方面は煙が立ち上っていたため、何も見えなかった。
「一体何の爆弾だろうか」。仲間と話しているうちに、広島に落とされた爆弾と同じだろうとうわさが広がった。
その後、仲間たちと同造船所幸町工場に救護活動のため歩いて向かった。道には死体がごろごろ転がっていた。電車に乗ったまま死んでいる黒焦げの人間や死んでいる馬の姿をはっきりと覚えている。赤茶けた顔で皮膚はぺらぺらになって歩く人たちと行き交った。まさに生き地獄だった。今でもその光景は脳裏から離れないが、言葉では言い表すことができないほど悲惨だった。
工場はほとんど全滅。働いていた従業員ら半数以上がけがをしてあちこちに倒れていた。その中には死体も多くあり、見るに堪えない状況だった。
帰宅途中、水産会社の倉庫から保管していた缶詰があちこちに散乱していたのを見掛けた。缶詰はパンパンに膨れていたが、空腹だったため、思わず缶詰を拾い集めた。
夕方ごろ、中川一丁目の家にたどりつくと、妻や両親ら家族全員が迎えてくれた。みんな無事で安心した。
自宅近くの伊良林小にはけが人ら約千人を収容。約一カ月間、同小に救護や遺体の処理などで通った。収容されているけが人は一人、また一人と次々に死んでいく。校庭に穴を掘り、その上に渡した木に遺体を乗せてだびに付した。ちゃんとした火葬もできず、亡くなった人に対して申し訳なかったが、そうすることしかできなかった。
<私の願い>
原爆で焼け野原になった町や被爆した人の姿は、戦地で見た光景よりむごたらしかった。どちらにしても、戦争は二度とあってはならない。