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私の被爆ノート

火の海から真っ黒な人々

2001年3月8日 掲載
福田 執(72) 爆心地から3.2キロの東古川町の下宿で被爆 =埼玉県川口市西青木=

北高小長井町の実家は農家だったが、子供のころから機械いじりが好きでたまらず、長崎工業の機械科に入学した。当時、三年生で東古川町の眼鏡橋付近に下宿していた。学校も動員学徒の作業も欠かさないまじめな生徒だったが、あの日は初めてさぼり、下宿でゆっくりしていた。

ピカッ―。全身を包み込むような閃光(せんこう)を感じた。下宿先の木造二階建ての家屋が傾いていたほどだから、相当の爆風に遭ったのだろうが、あの光以外は何も記憶に残っていない。

その後、学校や友人のことが気になったのだろうか、下宿を飛び出し大橋方面に向かった。長崎駅辺りは火の海だった。空は赤々とした炎と黒煙で覆われており、方角もよく分からなかったが、線路伝いに北上した。まくら木が一本一本燃え上がっていた。火の海の中から全身真っ黒、衣服もまとっていない人々が浦上方面からこちらにぞろぞろ向かってくる。声を掛けても、放心状態でだれも返事してくれない。恐怖というよりも何も考えられず、ただただ夢中で歩いた。

そのうち、線路わきのようなくぼ地に、真っ黒な人々が折り重なり横たわっている。全身やけどを負っていたのだろうか、黒に近い茶色だった。そして、死んでいる人たちなんだ、と感じるようになった。それでもしばらく、燃え盛るまくら木や火の粉、人々をよけながら進んだ。どのくらい歩いたのか覚えていない。多分、浦上駅まではたどり着かなかったのではないか。途中であきらめ下宿に帰ってきた。

それから一週間ほど下宿を離れず過ごし、学校の様子を見ることもなく小長井に帰った。復学もせず、しばらく農業を手伝っていたが、三年後、上京した。

あの日に限りなぜさぼったのか、どうしても思い出せない。機械科の生徒は、動員先の三菱製鋼の魚雷工場で結構、重宝がられていたので、作業にも熱が入った。いつものように出掛けて死んだり、重傷を負った多くの友人たちと大きく運命を分けてしまった。そのことで今でも心底がうずく。
<私の願い>
核兵器廃絶、そして原発反対。原子力は自然界に存在しないものであり、この半世紀、人間は制御できなかった。新たなエネルギー開発の新世紀を望む。

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