当時は十七歳で、姉夫婦が住んでいる東小島に下宿していた。九日の朝、夢を見た。これまで空襲に遭わなかったことを喜んでいる夢だった。目覚めたわたしは逆にいやな予感がして、家から出るのをためらった。しかし家族に迷惑もかけられず、胸騒ぎを覚えつつも大橋町の三菱兵器工場に向かった。
工場の台の上で鋳型を作る作業をしていたとき、突然ピカッと光り、とっさに目をつぶった。それきり何も分からなくなった。気が付くと台の上から吹き飛ばされていた。周りは真っ暗。わたしは「夢かもしれない」と思い自分の手をつねってみたが、痛かったので現実だと悟った。
工場はガラスなども爆風で吹き飛んでいた。友人と声を掛け合い、五人ほどで立山の方に逃げた。立山で勝山小学校でけが人の治療をしていると聞いた。町中はあちこちから火の手が上がっていたので、山の中を通って学校に向かった。気が付くと、わたしの鼻の先から皮膚の一部が垂れ下がっていた。上半身も熱線でかなり焼けていたが、逃げることに無我夢中だったのだろう。痛さも感じなかった。
学校でやけどの応急措置をしてもらい廊下に寝ころんだが、気分がむかむかして寝られない。はだしのまま、東小島の下宿に戻ったのは午後五時ごろだった。田上にある墓場なら人家もなくて安全と思い親類と向かったが、足も真っ黒に焼けていてなかなか歩けない。やっとの思いでたどり着き、近くの防空ごうで一晩を過ごした。
次の日、姉の夫が歩けないわたしを自転車に乗せ、愛野町の実家まで送ってくれた。間もなく髪の毛やまゆ毛まで抜け、病院で寝たきりの生活となった。意識もはっきりとしなかったようだ。ただ死を覚悟し「早かれ遅かれ死ぬのだから、こんなに苦しむならいっそ殺してくれ」と姉に頼み込んだことを覚えている。しかし姉は「達者になればいいこともある」と励ましてくれた。半年後、ようやく自分の足で歩けるようになった。元気になったのは二年後だった。しかし上半身や両腕にはやけどの跡が残った。それを隠すため、夏でも長そでを手放せない生活が続いた。
<私の願い>
あらゆる戦争をなくして核兵器を廃絶することが最も大切。原爆の恐ろしさは体験しないと分からないが、アメリカなど核兵器保有国ももっと被爆者の声を聞き入れ、核実験をやめてほしい。