西田テル子
西田テル子(76)
爆心地から0.7キロの長崎医科大で被爆 =長崎市橋口町=

私の被爆ノート

爆風にたたきつけられ

2001年2月22日 掲載
西田テル子
西田テル子(76) 爆心地から0.7キロの長崎医科大で被爆 =長崎市橋口町=

長崎医科大の放射線科に勤務し、永井隆先生の指導を受けながらレントゲン技師をしていた。当時は、男性が技師をするのが普通だったが、出征する人が多いため、女性も技師をしていた。

その日も朝から大学に出勤しレントゲン室にいた。大きな爆音が聞こえたので廊下に出ると、オレンジ色の火の玉のような光が見え、爆風で地面にたたきつけられた。いろいろな物が落ちてきて、目に何か入ったので、とっさにうつぶせになった。

気が付くと、辺りは日暮れ時のように暗く、静かだった。世界に独りで取り残されたような静けさが恐ろしかった。立ち上がろうとすると、左足が動かなかった。手で持ち上げようとすると、大腿(たい)部を骨折しているのが分かった。

動けずに途方に暮れていると、私の実家の近所に住んでいて、大学に勤めていた女性が胸から血を流しながら通り掛かった。名前を呼んだが、廊下に倒れてしまった。多分そのまま亡くなっただろう。

その後、大学の先生が左足に添え木を当ててくれた。下の階にあった教室から火が上がっていて危険だったので、先生に大学の通用門まで連れて行ってもらった。その後、通り掛かった二人の学生が、足の動かない私を、引きずるように山の方まで連れて行ってくれた。黒い雨が降っていたのを覚えている。

山の下にあった看護婦の寄宿舎が、すごい勢いで燃えていた。熱が風にあおられ、私のいる所まで上がって来た。焼け死んでしまうと思い、手だけで体を支えながら少しずつ進み始めた。骨折した左足はぐらぐらしていたが、痛みは感じなかった。しばらくして同僚が私を捜しに来てくれ、見守られながら、防空ごうで一晩を過ごした。

一週間ほど大学病院に入院した後、本原町にあった実家に帰り、出津(現在の西彼外海町)で家族と一緒に約一年間養生した。その後、大学に復帰したが、一九四七年に結婚して退職した。

五人の子供を産んだが、被爆した影響が子供に遺伝するのではないかという不安が常に付きまとった。幸いにも全員が元気でいることだけが、唯一の救いだと思っている。
<私の願い>
原爆の使用は二度と繰り返されてはならない。核兵器を持つ国が被爆地の願いを聞き入れてくれないのが悔しく、もどかしい。被爆者の思いを考えてほしい。

ページ上部へ