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私の被爆ノート

空から真っ黒いものが

2001年2月8日 掲載
井手 信美(66) 爆心地から6キロの自宅近くの路上で被爆 =佐世保市大黒町=

十一歳のときだった。母とおばさんの三人で商いに行き、矢上村(現長崎市田中町)の家に帰る途中、B29が飛んできた。飛び去っていき、ほっとしていると、落下傘が降りてきた。それを見て「兵隊さんの降りてきた」と言って指さしていたら、「バーン」という音がして火の玉が飛んできたみたいだった。

数メートル先の田んぼに吹き飛ばされた。顔がひりひりしたが、大きなけがはなかった。母もおばさんも無事だった。父が驚いて家から飛び出してきた。空からは真っ黒などろどろしたものがどんどん降ってきて、視界が百メートルもないくらいに暗くなった。

父は消防団員だったので、すぐに被災地に向かった。家に戻ると、ガラス戸は吹き飛ばされていた。真っ黒でどろどろしたものは道に積もるほどだった。夜になると、長崎の方の山は真っ赤に染まっていた。

翌朝、長崎は全滅して、三川町のおじさんの家も焼けたと聞いた。心配になり、母たちと山を越えて訪ねて行った。そうしたら道を間違えて浦上方面に出てしまった。浦上は焼け野原で、木造の家は一軒も建っていなかった。本当に一軒もなかった。コンクリートがごろごろと残っているだけで、浦上天主堂も崩れてしまっていた。

溝にはたくさんの人が落ちて死んでいた。多くの人がぞろぞろと山に向かって移動していた。戸板に乗せられた人もいれば、頭や足をけがして歩いている人もいた。焼けただれた馬が立っていたのを覚えている。被災地を通って三川町へ歩いて行った。

道沿いには被爆した人たちがずらっと並んでいて口々に「水をください。助けてください」と言っていた。皮がべろりとはがれたり、ただれたりして、顔は見られたものではなかった。今思えば、からって(背負って)でも助けてやればよかったのだが、そのときは怖くて、足が震えどうしようもなかった。本当に悲惨な光景だった。

家は焼け落ちたが、おじさんは無事だった。その後は、怖くて浦上の方に行くことはなかった。

父が家に帰ってきたのは原爆が落ちて数日後だった。死体ばかりで、板の上に乗せてどんどん焼いたと父が話していた。しばらくして、山の中で骨が見つかったという話をよく聞いた。山に逃げて死んだ人たちの骨だったのだろう。
<私の願い>
もう戦争だけはしてほしくない。戦争が起きれば何も残らない。張り切って戦地に行き、すぐに箱に入って帰ってきた親類もいた。話し合いで友好関係をつくり、困っている人には救いの手を差し伸べる社会になってほしい。

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