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私の被爆ノート

友捜すより恐怖が先に

2001年2月1日 掲載
松本徳三郎(72) 爆心地から約4.7キロの飽ノ浦3丁目で被爆 =西彼時津町左底郷=

当時私は十七歳。もともとは熊本県天草出身で一九四三年、地元の高等小学校を卒業。その後、三菱重工長崎造船所の青年学校に入り平戸小屋寮で生活、翌年飽ノ浦寮に移転した。十月ごろから潜航艇の製造工場に通ったが面白くなかったため、寮勤務という寮のそばでの防空ごう掘りの仕事をしていた。

その日も午前八時から防空ごう掘りを始めた。八月一日の空襲で水道管が被害に遭い水が出なくなっていた。山手にわき水があり、そこから水を引くためホースを持って登り、作業をしていた。

空襲警報は出ていなかったと思うが、飛行機の爆音が聞こえていた。ふと空を見上げると、落下傘が落ちているのが見えた。そのまま作業を続けていたところ、ピカッと閃光(せんこう)が走ったため、思わず近くの大岩の陰に身を隠した。体の上を強い爆風が吹き抜けていった。

耳を痛めたようだが、幸いけがらしいけがもなく、しばらくして寮へ戻ると、部屋にいた仲間が裸の上半身にガラスの破片を突き刺したまま飛び出してきていた。何が起きたかも分からず、高台に行ってみようと数人で登ったところ、県庁方面で火の手が上がっているのが見えた。

寮へ戻ると、仕事に行った人が帰ってきたり、近くの社宅の人たちがやってきた。けがをした人は血だらけだし、トラックで運ばれてきた人の中には、もう亡くなった人もいたようだった。

仲間数人で友達を捜しに城山方向に出掛けたが、住宅や工場などが焼け落ち、白煙が上がっており、人が集まっているところでは亡くなった人を火葬にしている光景に出合った。

友達に似ていると思って近づくと、相手も近寄ってくるため、「助けてやろう」という気持ちより、恐ろしくなって逃げ出すのが先だった。結局、友達は捜しきれなかった。再び空襲があるといけないと、その夜から寮生は二班に分かれて、近くの山林と海岸に避難して二晩を過ごした。

一週間後、実家へ帰るため、熊本県三角まで行ったが船が出ず、一晩過ごし翌朝やっとたどり着いた。三人の兄は出征しており、一人留守を預かる母は、私が死んだものとあきらめていたらしく、私の姿を見てびっくりしていた。
<私の願い>
二度とあのような戦争がないことを願っている。人間がした行為は取り返しがつかない状態を生み出すし、誤った核使用は人類を滅亡に追い込む。核兵器の廃絶や非核宣言を一日も早く実現してほしい。

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