長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

恐怖で泣いたが涙出ず

2001年1月27日 掲載
井手口ヨシ子(73) 8月9日に入市被爆 =長崎市本原町=

香焼にあった川南造船所で、工員の賃金などを計算する仕事をしていた。実家は高尾町にあり、毎朝大波止から船に乗って造船所に通勤していた。

原爆が投下された日も、いつものようにそろばんをはじきながら仕事をしていた。ピカーッと光が差し込んだかと思うと、部屋にあった壁が倒れた。地震と思い、机の下に入った。三十分ほどして、だれかが「長崎に爆弾が落とされたとげな」と言っているのが聞こえ、外に出て長崎の方向を見ると、雲がもくもくと上がっていた。職場付近はさほど被害はなかった。

その日は午前中で仕事を切り上げ、午後零時半ごろの船に乗り長崎に向かった。大波止には接岸できないということで、大浦で下りた。浦上方面に向かう同僚らと十人ほどのグループで歩き始めた。五島町付近で家などが燃えており、電車もあめのように曲がっていた。火事で熱かったので防空ずきんを水でぬらして歩き続けたが、長崎駅より先はまさに火の海。五島町に引き返し、片淵、西山を通り、実家に向かった。一本木(現在の三原町付近)まで来ると、爆風のためか、木に葉がなく、しおれている感じだった。道を歩く人は顔にやけどを負い、服は破れ、よろよろ歩いていた。

浦上方面は廃虚のように何もなく、地形がはっきり分かるほどだった。それを見た途端、恐ろしくなり泣いた。だが、あまりのひどさにぼうぜんとしていたためか、涙が出なかった。やけどを負った人が「水をください」と言っていたが、川の水は何かに汚染されているような感じがして、飲ませてあげられなかった。それが今でも悔やまれてならない。

飛行機の音がするたびに物陰に隠れながら、実家にたどり着いた。家は爆風で飛ばされていた。行方が分からなかった妹は、建物の間に挟まれるようにして死んでいるのが四日後に見つかった。弟は被爆直後から、魚の内臓のような物を吐いたり、体に黒い斑点(はんてん)が出るようになり、八月二十三日ごろ亡くなった。かわいそうだった。姉は三人の子供を失い、自身も亡くなった。

当時、浦上天主堂が燃える様子は地獄を見ているような感覚だった。今、町が復興し、どこにでもビルが立ち並んでいる様子は夢のように思える。
<私の願い>
ローマ法王がおっしゃったように、戦争は人間の仕業。核兵器をなくし、平和で、他人の気持ちを理解しようとする社会にしなければならない。

ページ上部へ