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私の被爆ノート

正視にたえられない惨状

2001年1月18日 掲載
荒木 重良(74) 爆心地からの1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =南高加津佐町己=

「ピカー」と閃光(せんこう)が走ってから、その直後の記憶がない。十八歳だった当時のことを、今でも不思議に思う。

八月九日。三菱長崎兵器製作所大橋工場で、徴用工として魚雷を作る作業に従事していた。空襲警報が鳴ったので、工場の外庭にある防空ごうにいったん避難した。しかし、間もなく警報が解除されたので、工場に戻って作業を再開した途端、「ピカー」となった。

気が付くと、十日朝になっていた。歩いて三十分ほど離れている住吉町の三菱兵器製作所トンネル工場にいた。手と頭から出血し、右腕にやけどをしていたが、ひどいけがではなかった。耳にはほこりか何かが詰まり、聞こえにくい状態になっていた。その場所まで自分で逃げ延びてきたものか、だれかに助け出されたものか、いまだに分からない。

トンネル工場を出ると、近くのバラックの家が燃えていた。当時住んでいた坂本町の寮が気になって歩いていくと、ものすごい爆弾が落とされたことが分かった。大橋工場は屋根が跡形もなく、鉄骨が曲がりくねっていた。工場前のガスタンクはペチャンコにつぶれていた。

浦上付近では、立っている家はなく、一面焼け野原となっていた。がれきなどで道も通れない。浦上川は黒焦げの人が何人となく横たわる死体の山と化していた。 荷馬車の馬も、電車も倒れていた。倒れていない電車でも、何人かの黒焦げの人が上半身を窓から投げ出された状態で亡くなっていた。異臭もして、それはそれは正気では見られない惨状だった。

歩いている途中で、道ノ尾駅まで汽車が来ていると聞いた。寮は跡形もないだろうとあきらめ、急いで駅に向かった。その日のうちに汽車に乗ることができ、諫早駅で加津佐行きに乗り換え、やっとほっとした気持ちになった。

加津佐駅には十一日の午前二時ごろ到着した。駅には、汽車の音を聞き付けた母と妹が来ていた。二人の顔を見たときには、本当にうれしかった。

自宅に帰ってからは、熱が出たり下痢をしたりする日々が二カ月以上続いた。不安を抱きながら過ごす毎日だったが、母が毒下しのせんじ薬を作ってくれるなど手厚い看病をしてくれたことを、本当にありがたいと感謝している。
<私の願い>
原爆の悲惨さは見たものしか分からない。被爆者が核廃絶を訴えても、米国などが核実験をやめないことを情けなく思っている。戦争は決してしてはいけない。二十一世紀は、核兵器が存在しない時代となってほしい。

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