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私の被爆ノート

「水を」今も脳裏に残る

2001年1月11日 掲載
野村 健一(75) 長崎市竹の久保町で入市被爆 =長崎市鳴見台1丁目=

八月九日は、朝からいい天気だったことを覚えている。十九歳だった私は、向島(長崎市)の三菱長崎造船所の工場で特殊潜航艇にエンジンを取り付ける仕事をしていた。三菱長崎兵器製作所大橋工場で別に作られていたエンジンを取りに、私は同僚や上司と大橋町へ向かっていた。

浜口町に差しかかったころ、リヤカーを引きながらなぜか急に「ここから先へ行きたくない」との思いに駆られた。”虫の知らせ”だったのだろう。上司の許可を得て工場に戻ったのもつかの間、いきなり突風が吹いた。「ドカーン」という大きな音がしたような気がするが、はっきりと覚えていない。敷地内の道を歩いていた私は、一瞬のうちにわきの方へ吹き飛ばされた。

周りの景色がまったく見えなくなって、空から黒みがかった油のようなものが降ってきた。ただ、浦上方向に大きな”入道雲”があることだけは分かった。その後、工場内や町のあちこちから火の手が上がり始めた。県庁の方からも炎が見えた。私は一番近くの防空ごうに飛び込んだ。この時、幸い自分にはけががないことに気付いた。

十一日から、大橋工場までの道のりを同僚を捜して歩いた。周辺にはまだ建物の火がくすぶっていた。とても暑く、人が焼けた強烈なにおいと何かのガスを吸い込んで気分が悪くなってしまった。

稲佐橋を渡って浦上方面に向かった。骨組みだけになった電車。男女の区別がつかないほど焼けただれ、腕などがちぎれた遺体。大けがで身動きが取れず、まだ生きているのに傷口からうじ虫がわいている人もいた。とても直視することのできない光景。おびただしい数の遺体をまたがなければ先には進めなかった。

たくさんの人が私に「水が欲しい」と寄ってきた。けが人に水を与えてはいけないと聞いていた私は、とにかく自分に「人捜しが先」と言い聞かせて先を急いだ。浦上川には、水を求めて飛び込んだ人や動物の死体が折り重なっていた。道端では、雨戸を担架代わりにして遺体を運んできては焼くという作業を淡々と繰り返す人たちもいた。

今思えば、苦しんで亡くなるのだったら、せめて最後に一杯の水を飲ませてあげてもよかったのではないか―。言葉では言い表せないあの情景を思いだすたびに、私は自問してしまう。三日間捜し続けた同僚らも、とうとう見つけ出すことはできなかった。唯一、分かったのは旭町で見つけたリヤカーの残がいだけ。無念で申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
<私の願い>
核兵器も存在し、今はまだ平和な世の中とは言い切れない。戦争で苦しむのは、私たちだけでたくさん。二度と起こしてはならない。国は戦争、核兵器のない平和な世界の実現に向け、積極的に取り組んでほしい。

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