被爆したのは十八歳の時。片淵三丁目の自宅の二階にいた。その日は昼から仕事に出る予定だった。一階で食事の準備をしていた母から「ご飯を食べないと遅れるよ」と声が掛かった時、「ぶーん」という飛行機の音が聞こえた。警戒警報は解除になったから友軍機だと思い、階段を一段下りようとした瞬間だった。
衝撃で階段を滑り落ちたのだろう。気が付くと一階にいた。一体、何分間ぐらい気絶していたのか。母が昼食を用意していたはずのテーブルの上はみんなひっくり返りめちゃくちゃだった。てっきり自分の家に直撃弾が落ちたのだと思った。母と小一の弟の姿は見当たらなかった。
自宅そばの長崎高等商業学校グラウンドに防空壕(ごう)があった。その防空壕と自宅の間を何度も往復して母と弟の姿を捜した。二度目に防空壕に入ろうとした時、のどが焼けるような吐き気を感じ真っ黄色の液体を吐いた。その時は毒ガスを吸ったのだと思った。
往復の途中、身なりのよい女の人と擦れ違った。彼女は持っていたハンドバッグの口金を大きく開き、グラウンドに落ちたクスノキの葉を喜々として拾い入れていた。私を見ると「お嬢さん、あなたも早く拾いなさいよ」と誘う。上品な口調とは対照的なおかしな振る舞いだった。きっと頭が変になってしまったのだ。
母と弟は自宅裏の石垣を上り隣家に逃げようとしていたのだが、しばらくして自宅に帰ってきた。しばらくすると、西山の方からやけどをした人々がぞろぞろとやってきた。その中の一人は、長崎高商グラウンドに立ちすくんでいた。母に「お化けみたいな人がいる」と言うと、母はその人に「秋吉さんでしょう?」と声を掛けた。うちに下宿していた二人の医大生のうちの一人だった。
秋吉さんの体はやけどで皮膚が垂れ下がり、ガラスの破片がたくさん突き刺さっていた。母はそれを一つ一つピンセットで抜いてやっていた。私はとてもその様子を正視できなかった。秋吉さんは結局、伊良林国民学校に運ばれてそこで亡くなった。
もう一人の下宿生の川上さんは、二日市(福岡)から母親が駆け付けた。「父親の形見の時計を目印に捜します」と言って焼け野原に出て行ったが、とうとう亡きがらさえ見つけることができなかった。
<私の願い>
再び核戦争を起こさないこと。被爆者の願いはこれしかない。今はたくさんの国が核兵器を持っているが、核兵器をなくすためには、まず造らないことだ。核のない世界を実現してほしい。