山里国民学校の六年生だった。空襲警報が鳴るたびに、防空壕(ごう)に入るのを嫌がっていたため、上野町の実家から山手の三原町の叔母の家に預けられ暮らしていた。原爆が落ちる二時間ぐらい前に、叔父の使いで爆心地の近くにある新聞販売店に新聞を買いに出掛けた。
用事を済ませて叔母の家に戻り、叔父と兄の三人で縁側でくつろいでいると、突然、稲妻のようなせん光が走った。熱線を浴び、思わず「熱い」と口走った瞬間、爆風で家の中まで吹き飛ばされ気絶した。
叔父に倒壊した家の中から助け出され、意識が戻った。兄を捜すと、家の壁の下敷きになっていた。叔父と協力して助け出したが、三人ともやけどをしていた。自分の顔に付いた血を手でぬぐうと、皮膚まではげてしまった。
そのうち、近所に住んでいる顔見知りのおばさんが、助けを求めてやって来た。衣服は燃え、ほとんど裸同然。体全体に、ひどいやけどを負っていた。
私は一人で近くの山にわき水をくみに出掛けたが、ふもとを見ると火の海だった。山まで逃げて来た人たちに水を与えると、すぐに死んでしまったので、助かりそうな人にはかわいそうに思ったが、水をやらなかった。
午後になって、田んぼに草刈りに出掛けていた叔母といとこが、無傷で帰って来た。「同じ爆弾がまた落ちたら終わりだ」とだれかが言ったので、その夜は、防空壕で寝た。しかし、ほとんど眠れなかった。近所のおばさんは、夜明け前に亡くなった。
翌日、実家に戻ろうとしたが、通り道は死体でいっぱいだった。逃げる途中で亡くなったのか、死体はどれも後ろを振り返ったままだった。実家の近くまで行ったが、火災で地面が熱くなっていて、はだしのままではたどり着けなかった。
次の日、山里国民学校の近くの防空壕に避難していた弟を迎えに行った。姉も叔母の家を訪ねて来た。兄弟四人で無事を喜んでいたが、姉は体に斑点(はんてん)ができ始め、下痢を繰り返し、数日後に亡くなった。後を追うように、弟も同じ症状で他界した。実家の焼け跡で祖母と母の骨を拾ったのは、原爆が落ちた日の四日後だった。
生き残った兄たちと、バラック造りの家を建て暮らし始めたころには、十一月になっていた。
<私の願い>
核兵器を地球からなくすことは難しいと思うが、絶対に使用させてはならない。最後の被爆地、長崎の語り部として、少しでも平和の維持に役立ちたいと思う。