当時十七歳。県立農学校の三年生だった。あの日は軍の命令で、諫早市栄町付近の道路拡張工事に動員され、朝から家屋などの解体作業に従事していた。
昼前に空襲警報が鳴った。長崎方面を見ると空が真っ黒になっていた。昼食を取っている時「新型爆弾が長崎に落ちたらしい」との話が伝わった。
間もなく教官から「長崎から負傷者が運ばれて来るので諫早駅に待機せよ」と命じられた。負傷者を運ぶ担架として解体した家屋の戸板などを持参し、諫早駅に向かった。多数の負傷者を乗せた数両の列車が諫早駅に入ってきた。既に夕方だったと思う。
列車から運び出された人々は、いずれも全身が焼けただれ、皮膚がはがれて垂れ下がっていた。「水をくれー」と、負傷者のうめき声がホームに満ちた。ホームでは、血にまみれたぼろぼろの服を苦し紛れに引きちぎり、裸のまま死んでいく人もあった。「これが人間だろうか」というありさまだった。
「水を与えたら死んでしまう」と教官から聞かされていたので、水の求めにはこたえず、駅近くの県立諫早高等女学校(現県立諫早商業高校に位置)の講堂に負傷者をひたすら搬入した。
女学校の講堂は負傷者であふれ、足の踏み場もないほどになった。二百人前後もいただろうか。年齢層は四十―六十代の人が多かったようだ。二、三日すると、負傷者の傷口にうじがわき、講堂内には何とも言い難いにおいが漂った。まさに生き地獄の様相だった。
救護班の腕章を着けた女性がいたが、医療品は足りず満足に手当てができるような状態ではなかった。わたしたちはうじを取ってあげ、自分の手ぬぐいなどを与えるのが精いっぱいだった。今振り返ると、救護に当たりながらも、いかに負傷者が安楽に亡くなられるか願わざるを得ないという悲惨な状況だったと思う。
亡くなった方は、市内の火葬場に運ばれたが、既存の施設では間に合わず、薪を積み上げて亡きがらを焼いていた。救護活動には学生だけでなく、一般市民や婦人会の会員らも動員されていた。搬入先も女学校だけではなかったようだ。
救護活動には四、五日携わり、学校生活に戻った。講堂で苦しんでいた人たちがどうなったのか今となっては知る由もない。多くの方が亡くなられたのではないだろうか。
<私の願い>
筆舌に尽くし難い悲惨さと苦しみを与える核兵器を二度と使ってはならない。海外で核実験が続いているのは許し難いこと。核兵器が三度、戦争に使われれば人類の破滅につながりかねない。一日も早い核兵器廃絶を願う。