深堀 繁美
深堀 繁美(69)
爆心地から3.4キロの三菱長崎造船所で被爆 =長崎市本尾町=

私の被爆ノート

人焼くにおい町に立ち込め

2000年11月16日 掲載
深堀 繁美
深堀 繁美(69) 爆心地から3.4キロの三菱長崎造船所で被爆 =長崎市本尾町=

旧制中学の三年生で、報国隊として飽の浦町の三菱長崎造船所で魚雷を発射させる装置をつくる仕事をしていた。大浦天主堂の隣にあった神学校で生活しており、毎朝、大波止から船に乗り職場に行っていた。

原爆が投下された時は空襲警報が解除されていたので、仲間とともに工場の中で作業をしていた。突然、あちこちに強い光が見え、大きな音が聞こえた。近くに爆弾が落ちたと思い、とっさに耳と目を押さえながら床に伏せた。

目を開けると、屋根がぼろぼろと崩れ落ちてきていたので恐ろしくなり、防空ごうになっていた近くのトンネルに逃げた。逃げる途中、後ろを振り返ると、真っ黒い煙のような雲が空に浮かんで見えた。

トンネルには立神方面から逃げてきた人もいたが、体全体をやけどしていて、白い薬のような物を塗っていた。恐ろしくて、しばらくは外に出られなかった。

夕方に大波止行きの船が出ることになり、神学校に帰った。

先輩たちは浦上地区の町工場で働いており、即死したか、神学校に戻ってきた人も数日のうちに亡くなった。

翌日、本尾町にある実家に戻ることを許された。歩いて帰る途中、爆心地付近の川に死体が山積みになっており、生きている人も「水を、水を」と叫んでいた。電車は車輪の部分だけが焼け残っていた。浦上天主堂も崩れ、燃えている所もあった。

浦上天主堂の裏にあった家は爆風で壊されていたが、燃えてはいなかった。赤迫にいて助かった父親が家に帰っていた。だが、兄弟は皆、亡くなったと聞いた。たくさんの死体を見てきたためか、不思議と涙も出なかった。今思えば、異常な精神状態にあったのだろう。

町には亡くなった人を焼くにおいが、しばらく立ち込めていた。何の外傷もない人が次々に亡くなっていくのを見たり、聞いたりすると、自分もいつか死んでしまうのではないかという恐怖感が、なかなか振り払えなかった。
<私の願い>
核兵器をなくし、長崎を最後の被爆地にしたい。核保有国に対し、核兵器廃絶に向けた実際の行動を約束させなければならないと思う。

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