本岡タマエ
本岡タマエ(73)
爆心地から4.1キロの向島の三菱長崎造船所施設で被爆 =福江市大荒町=

私の被爆ノート

校庭の隅に遺体ずらり

2000年11月9日 掲載
本岡タマエ
本岡タマエ(73) 爆心地から4.1キロの向島の三菱長崎造船所施設で被爆 =福江市大荒町=

一九四四年春ごろ、旧制県立五島高等女学校を卒業すると同時に長崎市の三菱造船所に動員され、西立神町向島の事務所で給与課事務員をしていた。

あの日、空襲警報が解除され、事務所二階の自分の席に戻った途端、閃光(せんこう)がした。隣の席の人は広島に投下された「新型爆弾」の情報を知っていたのか、机の下に潜り込んだので、座布団をかぶり、同じようにした。地震のようにグラグラと揺れ、机から落ちたインク瓶などが床をゴロゴロと転がった。

「全員退避!」の声で建物外側に付いていた階段に向かったが、爆心側の東側階段は吹き飛ばされてなくなっていたため、建物反対の西側階段から下りた。事務所近くの防空ごうに避難。食事もとらず、夕方、船で対岸の大波止に渡り下筑後町(当時)の寮まで歩いた。途中、あちこちで火が燃え盛り、やっとの思いで帰り着いた。

寮の玄関はげた箱などが倒れて中に入れず、近くの防空ごうに行った。「浜口方面は焼け野原」とだれかに聞いたが、詳しい状況は分からなかった。夕食として、湯飲み茶わん一杯の大豆が与えられた。

当番で寮に残り、洗濯中に被爆した女学校の同級生は、腹部にやけどを負い、腕にガラスでけがをしていた。翌十日か十一日だったと思うが、この同級生を救護所まで連れていくように言われ、勝山国民学校(当時)まで行った。

校庭の隅には、ずらりと遺体が並び、名前を示す立て札が立っていた。教室に入ると、たくさんのけが人がいた。体に刺さった多数のガラス片を抜いてもらっている男性や、男か女か分からないほど真っ黒にやけどし、腹ばいで寝ている人がいたのを覚えている。

八月十九日になって、やっと福江行きの船が出たので帰郷した。福江港には、旧長崎師範学校に通う息子の安否を心配し、迎えに来ている知人もいた。自宅に帰り着いたのは翌日未明で、寝ていた父母は驚き「死んだと思っていた」と涙を流して喜んだ。

先日、同窓会名簿が届いた。同世代の上級生に比べ亡くなった同級生が多かった。同級生は多くが動員先の長崎で被爆しており、その影響だろうかと思った。自分は原爆でけがを負わず、体調も崩さなかったが、不安はずっと抱いている。
<私の願い>
あのような悲惨な戦争は、二度とあってはならない。早く亡くなった方々がかわいそうだ。自分も原爆の影響を心配しながら生きてきた。なぜ今も核兵器を保有している国があるのか。核兵器をすべてなくしてほしい。

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