たった一つの爆弾で長崎が壊滅したと聞いたときは、ただただ驚くばかりだった。終戦後に知った事実に、一瞬、耳を疑った。
隣組の班長をしていて、あの日のお昼前、長崎市元町(現東山手町)の実家近くで、米の配給券を配りに行こうとしていた。突然、空が光り、家の中にあった家具などが倒される音を聞いた。「空襲だ」と思い、家の床下にある防空ごうに逃げ込んだ。
結婚していたが、夫は出兵し、戦地からの帰りを待つ日が続いていた。六月に沖縄玉砕の知らせを聞き「日本は負けてしまう」と思い、戦争がいつまで続くのかと途方に暮れていた。そんな時に、あの日がやってきた。二十三歳の夏だった。
山の陰に隠れる格好で、家は爆風による被害から免れたが、爆発の振動で家の中は家財道具が散乱した。あまりの被害の大きさに「近くに爆弾が落とされた」と思った。その日は近所の人たちと一緒に、近くの高台にあるグラウンドに避難。浦上方面が燃え上がっているのと、県庁がくすぶり始めているのが、そこから見えた。
翌日、銭座町にある主人の実家を訪ねた。途中、燃え尽きた電車や馬の死体などを見て、被害の大きさにショックを受けた。銭座町の寺にあった防空ごうには、多くのけが人が担ぎ込まれていて、背中をやけどした義父もその中にいた。
十一日、十分な治療が受けられるようにと、義父らと一緒に時津小学校へ移った。そこでも、たくさんのけが人が苦しんでいた。運び込まれたけが人は、ばたばたと死んでいった。「苦しい、助けて」という声が突然しなくなったかと思うと、既に亡くなっていたという状況だった。
数日後、新興善小学校に移ったが、けが人の傷口からはウジがわき、治療ができない私たちは、はしでウジを取ってやることぐらいしかできなかった。
十五日、元町の実家で玉音放送を聞いたが、戦争は本当に終わったのだろうかと疑問に思った。身体的、精神的な苦しみは、その日以降も続いたからだ。
<私の願い>
核兵器をなくしてしまうことは難しいかもしれないが、核の恐怖のない世界を早く築いてほしい。戦中、戦後の惨めな思いを子供や孫に経験させたくない。