梅津 虎好
梅津 虎好(72)
爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =南高国見町多比良=

私の被爆ノート

川に折り重なった人々

2000年10月26日 掲載
梅津 虎好
梅津 虎好(72) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =南高国見町多比良=

当時十七歳。三菱長崎兵器製作所大橋工場の仕上げ工場で魚雷のスクリューなどの検査を担当。実際は本土決戦に備えて竹やりを作ることも多かった。同僚の大半が女子工員だった。

原爆投下の日。空襲警報が解除され、工場内の地下防空ごう、通称「たこつぼ」からはい出した。蒸し暑さで汗まみれになったシャツを脱ぎ、手ぬぐいで体の汗をぬぐった。突然の強烈なせん光とごう音。机の下に潜り込んだが、がれきが背中に当たり、一時、気を失った。

悲鳴や激しい泣き声が聞こえ、ぼう然と見回すと、鉄骨の柱が頭上でぐにゃぐにゃと曲がり、天井は吹き飛んでいた。どす黒く不気味な雲が空を覆い、薄暗かった。ガスのにおいが漂う中、意識を失った女子工員を背負い、同僚たちと一キロほど先の竹やぶに避難。女子工員は頭部全体が内出血ではれ上がり、うなっていた。

同僚たちは、着替えの衣服などを入れた救急袋を工場に置き忘れていた。「何とかして取ってくる」。急いで工場に戻ると、人が作業台の下敷きになっていた。私一人の力ではなすすべもなく、その場を離れた。救急袋を抱えて川辺に差し掛かった時、両手で頭を押さえた男に呼び止められた。「足に巻いている布を頭に巻いてくれ」。男が両手を離した途端、頭部から血が噴き上がった。慌てて布をきつく巻いてやると、ほっとした表情で体の力を抜いた。

川では人々が折り重なって死んでいた。さらに、その川に水を求める人々が飛び込んでいく。地獄だった。あちこちで火の手が上がり「自分も死ぬのか」と恐怖感に襲われた。無性にのどが乾き、耐え切れずに田んぼの濁った水をごくごくと飲んだ。夕方、同僚たちを連れて道の尾まで歩き、翌日、もがき苦しんでいる女子工員を西彼時津町で医者に診てもらった。

南高国見町の実家に私の無事を知らせるため、諫早駅から歩いた。生き延びたことを実家で喜び合った後、飯を腹いっぱい食べ、同僚たちの待つ時津町を再び目指した。翌朝着いた浦上駅付近は、膨大な人の遺体が横たわるすさまじい情景。夏の暑さも手伝い、死臭が鼻をついた。

ひん死の状態だった女子工員のはれは徐々に引き、食欲もわいてきた。奇跡に思えた。回復を確認して、それぞれ帰郷した。

背中の傷や甲状せんの痛みにおびえる日々をやり過ごし、山口県下関市の工務店で左官として勤務。定年まで懸命に働いた。あの日から二十年以上を経て、工場の同僚たちと再会することができた。
<私の願い>
人々が次々に死んでいく光景は、いつまでも脳裏にこびり付いている。悲惨な記憶と被爆者の思いを、子どもらに受け継いでもらいたい。戦争は軍が国を制圧していたからこそ始まったことを忘れてはならない。

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