当時、私は二十六歳で、長崎市立山町にあった警察練習所(現警察学校)に入所して間もないころ。あの日は上司の依頼で、練習所近くの寮の玄関先で、かんなの刃を研いだり金づちの柄などを作っていた。うだるような暑さで、制服の上着は寮に脱いでワイシャツ姿。滴り落ちる汗をぬぐいながら作業をしていた。
突然、ピカッとせん光が走った。「広島に大型の恐ろしい爆弾が落ちた」という話が頭をかすめた私は、とっさに上着を取りに寮の中へ。ドーンという爆風とともに体ごと飛ばされた。
体の痛みで気が付くと、同僚二人に抱えられ、稲佐山の山頂に向かっていた。同僚によると、寮でがれきの下敷きになっていたらしい。幸い、胸部に五、六カ所の切り傷と全身の打撲程度で奇跡的に助かった。
山頂には、死んだ赤ちゃんにおっぱいを飲ませている母親や、親子だったか四十代の男性を背負っているお年寄りの女性がいた。息絶えた他人の子供をおぶっている同僚もいた。
しばらくすると、米軍の戦闘機一機が低空飛行で威嚇射撃して飛び去った。操縦席の笑った顔がはっきり分かるほど近い距離だった。悲惨な現実に、悔しい思いが込み上げてきた。
市内中心部を見渡すと、あちこちで火の手が上がっていた。夜になっても火の勢いは衰えず、上空を真っ赤に染めていた。山頂には小人数のグループが散らばっていた。私たちも同僚ら数人といたが、交わす言葉も少なく、その日は野宿で不安な一夜を過ごした。 翌朝、わき腹辺りにれんがの破片が突き刺さり負傷していた同僚と二人で、救護所となっていた長崎市勝山町の勝山国民学校(旧勝山小)に向かった。小学校には多くの負傷者が運び込まれ、気が狂ったように泣き叫ぶ校舎からの声が耳をつんざいた。
手当ては一般市民が優先だった。結局、治療を受けることなく同僚と別れ、妻と子供が疎開していた母の実家のある佐世保市早岐町に戻るため、浦上駅に向かった。 道のりは地獄絵だった。建物はほとんど残っておらずがれきの山。その中に死体がごろごろ転がっていた。馬車引きの人が馬の下敷きになって死んでいた。野良犬が死体をむさぼる光景もあった。駅の近くで倒れていた中年女性が「巡査さん、水をください」とすがるように声を掛けてきた。水をやると女性はその場で息絶えた。
夕方、早岐町の実家に着くと妻が「お帰りなさい」と笑顔を見せた。ほっとした瞬間だった。数日後、看護婦になったばかりの妻の妹が、勤務先だった長崎市坂本町の長崎医科大付属病院(現長崎大医学部付属病院)で亡くなったことが分かった。親族の死に、あらためて戦争への憎しみが込み上げてきた。
<私の願い>
私のような被爆体験は二度とあってはならない。幸い、私は命に縁あって長生きすることができたが、原爆で多くの人が尊い命と財産を奪われた。幼い子供も多く犠牲になった。一日も早く非人道的な戦争がなくなることを願っている。