当時二十歳。貯金口座の原簿管理をする長崎貯金支局に勤務していた。七月下旬に、母と小学生の弟二人は北高小長井町の親せき宅に疎開。兄とすぐ下の弟は、戦地に赴いていた。三菱重工長崎造船所に勤める父と二人、長崎市瀬ノ脇町の高台にある同造船所の社宅で生活していた。
八月一日、同造船所への空爆で、近くに建っていた社宅も壊滅的な被害を受けた。家中にガラスの破片が飛び散り、家具が散乱している状態。八月九日も、足の治療で病院へ向かう父を送り出し、早朝から家の掃除に追われていた。平穏な一日だと思っていた矢先の午前十一時二分、巨大な雷のような破裂音が響いた。
「一体何だろう」。思わずそばにあった障子をつかんでしゃがみ込んだ。周囲が騒然とする中、近所の男性に「逃げよう」と言われ、手を引かれて近くの防空ごうに飛び込んだ。どれぐらいそこに居たかは覚えていない。防空ごうを出た時、対岸の県庁坂付近では白煙が上がっていた。
恐る恐る社宅に帰ると、病院から父が戻っていた。「大丈夫だったか」とお互いの無事を確認し合い、その日は旭町の知り合い宅に身を寄せた。父と知り合いの男性の三人で、畳をひっくり返して、床下に潜んだ。蚊の飛ぶ音が敵機のプロペラ音に聞こえ、怖くて一睡もできなかった。
翌朝。母たちが疎開している小長井町に逃れるため父と二人、駅に向かった。電車通りをひたすら浦上方面へ歩いた。擦れ違う人たちは皆、皮膚がめくれ、幽霊のように無言で歩いていた。辺りを見渡しても一面焼け野原。牛も馬も、人間も一緒のように腹から腸が飛び出して死んでいた。
「一江、これは仏様か、それとも人形か」と父がぼそっと言った。「皆黒焦げになって死んでるやない」と泣きながら叫んだ。死体と異臭の中、結局、道の尾駅まで歩き続けた。
顔面の皮膚がずり落ち、血だらけの負傷者らとともに列車に乗り込んだ。小長井駅に着くと、新型爆弾が落ちたらしいとの知らせを聞いた母たちが迎えに来ていた。母が「大丈夫やったね」と言って、近寄ってきた。その時、初めて助かったと思った。
あれから五十五年を経た今も、浦上川のたもとで「お母さん、水がほしいよ」と泣き叫ぶ子どもの声が耳から離れないでいる。
<私の願い>
戦争や原爆の恐ろしさは、体験した人たちにしか分からないものだと思う。だから、被爆体験を後世に語り継いでいくことが、生き残った者に課せられた使命だと思っている。若い人たちが私たち被爆者の体験を知って、平和の尊さを感じてくれればうれしい。