一九四五年八月九日、当時は県立高等女学校の一年生。朝方、空襲警報があっていったん避難した後、家に戻っていた。遊びに来た友人や同居していた大伯母と一緒に座敷にいたら、突然、部屋の中で雷が落ちたように「ピカピカッ」とした。家があっという間につぶれ、下敷きになった。
無我夢中ではい出した。当時七歳だった弟もすぐに出てきた。共に幸い軽傷だったが、仕事の当直明けで家にいた父が、下半身が下敷きになって出られなくなっていた。私が近づくと「母さんの言うことばよう聞かんばよ」と言われた。私にとって最期の父の言葉になった。
父を助け出す間もなく、隣に住んでいた伯母と弟と一緒に近くの山に避難した。入れ違いで家に戻った伯父がその後、炊事場にいた母を見つけ助け出した。母は炊事の火で大やけどを負っていて、二人は近くの墓地に避難したそうだ。
山手の畑まで逃げると、ひどいやけどをした人たちがたくさん避難していた。周囲の建物は軒並みつぶれていた。一時間ほどたったころ、近所の人が家で見つからなかった赤ん坊の妹を連れてきて、驚いた。
偶然赤ん坊の泣き声を聞き、妹をかばうように抱いて動けなくなっている大伯母を見つけたそうだ。「先に赤ちゃんを助けて」と妹を託され連れてきたと言った。妹は無傷だったが、家は火災に巻き込まれ、大伯母と父は助からなかった。
遊びに来ていた友人はとうとう見つからなかった。外出していた妹(二女)も、二度と帰らなかった。
市街のあちこちから上がる火の手を見ながら夜を明かした。翌朝、母や伯父と合流した。母はやけどがひどく、勝山国民学校(当時)の救護所に収容された。私は付きっ切りで看病したが、母は八月十七日にこの世を去った。
防空ごうに避難していた家族らの所に戻ると、すぐに島原に住んでいた父の知り合いが訪れ、私と弟妹は島原に一時避難した。しかし、八月末に弟の体調が悪くなり長崎市に戻った。伯父の家族が同市銀屋町(当時)に新たに家を借りて暮らしており、同居することにした。
弟の具合は良くなったが、今度は妹が体調を崩し九月五日に死んだ。内臓疾患による消化不良が原因だった。いとこ(伯父夫婦の娘)と二人、家にあったたんすの引き出しに妹の小さな亡きがらを入れ、荼毘(だび)に付した。悲しい記憶が今も脳裏から離れない。
<私の願い>
家族の多くを原爆で亡くした被爆者の心の痛みは、味わった者しか分からないと思う。戦争をなくし、核兵器を廃絶して世界中の人々が私たちのような思いをしないよう願ってやまない。悲劇はもう二度と起きないでほしい。