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私の被爆ノート

次々死んでいった家族

2000年9月28日 掲載
西田 秀雄(85) 爆心地から2.3キロの住吉町で被爆 =長崎市橋口町=

原爆が投下された時、一家九人で橋口町に住んでいた。当時三十歳の私は三菱長崎兵器製作所大橋工場勤務。午前中から住吉町のトンネル工場で、魚雷の部品を作る旋盤など工作機械を中に搬入する作業をしていた。

一本の長さが三百メートルのトンネルのちょうど中間あたりで作業をしていると突然、「シューッ」という大きな音が聞こえた。てっきり圧縮した空気を送るパイプが破裂した音だと思ったが、トンネル内が停電した。手探りで慌てて外に出ると、点々と建っていたわらぶき屋根の農家がボウボウと音をたてて燃えていた。

一緒に作業をしていただれかが「爆弾はどこに落ちたんだ」と叫んでいたが、だれも答えることができなかった。浦上の方角は真っ黒な煙に覆われていて、何も見えなかった。トンネルの入り口付近で作業をしていた人たちは爆風で地面にたたきつけられて大けがをしていた。今思えば、トンネルが爆風に対して直角に掘られていたおかげで、自分は助かったのだと思う。

しばらくすると、トンネル工場から百メートルほど離れたところにある女子挺身(ていしん)隊の寮から、衣服がぼろぼろに焼けた女の子たちが助けを求めて歩いてきた。トンネル工場には救護所はおろか薬もなく、彼女たちを山手の野原に寝かせておくと相次いで死んでいった。昼ごろになって大村や諫早から救援列車が到着したので竹で作った担架で負傷者を運んだ。

夕方になり、自分の家族を捜すため歩いて家に帰った。途中、配給を待っていて焼死した死体が道に沿って並んでいたのが忘れられない。やっとの思いで家にたどり着くと、家はぺちゃんこになっており途方に暮れた。

夜になると三菱兵器製作所の幸町工場に勤めていた父が帰宅し、お互いの無事を喜んだ。その日は家のそばに野宿をしたが、翌日になると母と妻、十七、十五歳の妹二人がそれぞれよろよろしながら帰って来た。十九歳の妹は城山町の防空壕(ごう)から捜し出して連れ帰った。

父を除く五人とも外傷はなかったが「腹が痛い。医者を呼んでほしい」と訴えた。大橋工場で下痢止めの薬をもらってきてのませたが二、三日のうちに次々と死んでいった。当時は放射能の存在さえ知らなかった。後で分かったが、生まれて間もない私の長男と、十二歳の妹は即死していた。
<私の願い>
とても長生きできないと思っていたのに、今までよく生きてこれたと思う。終戦の知らせを聞いたときは、なぜ原爆投下の前に降伏しなかったかと思い残念でならなかった。戦争はこれからも絶対にしてはならない。

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