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私の被爆ノート

両親の骨 一握りの灰に

2000年9月14日 掲載
深井 文子(73) 爆心地から1.4キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =長崎市本原町=

当時十八歳。浜口町に両親、妹とともに暮らしていた。一九四五年の春に女学校を卒業後、小さな町工場の事務職を経て、七月から三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤めていた。

原爆投下の日。工場に行くと、空襲警報が鳴ったので、赤迫にある防空ごうまで逃げた。警報が解除されたので家に帰ると、母親がわたしに向かって「この戦争では、四人に一人が死ぬらしい。体に気を付け、いざとなったら逃げなさい」と話した。今思えば、あれが両親、妹に会った最後だった。

工場に戻ると、職場の上司に、城山国民学校にある事務所に書類を取りに行くよう頼まれたが、とても暑い日だったので断った。上司は自転車で書類を取りに行き、戻ってきた直後に原爆に遭った。もしわたしが行っていたら、外で被爆して死んでいただろう。

原爆が投下された時、わたしは部屋の真ん中辺りにいた。自分の上に爆弾が落ちたと思うほどの衝撃で気を失ったが、「火事になるぞ」という大声で目を覚まし、急いで外に出た。窓際にいた同僚らはガラスの破片で血だらけになっていて、だれなのか判別できないほどだった。

同僚がわたしに「腕の皮がはがれている」と教えてくれ、見ると両腕の皮がはがれていた。黒い水玉模様の上着を着ていたが、水玉の部分だけが焼けて、穴が開いていた。

家族のことが心配になり、家に向かって歩きだした。途中、助けを求める人が多くいたが、家族の方が心配なので、申し訳ない気持ちで通り過ぎた。

家は焼けて、もうなかった。それでも家族は家の裏にあった防空ごうにいるかもしれないと思い、両親と妹の名前を呼んだが、返事はなかった。家のあった場所をよく見ると、父親がいつも座っていた場所や台所に骨のような物があったので、家族は全員死んでしまったと思った。遺品を探したが、茶わんの破片ぐらいしかなかった。

その後、いとこに偶然会い、親せきが疎開していた今の西彼琴海町まで逃げようと、歩き始めた。その夜は道の尾の救護所で過ごした。翌日、いとこがリヤカーを借りてきて、わたしを乗せて疎開先まで連れていってくれた。二、三日たって、熱と下痢に悩まされ、一カ月ほど寝込んだが、親せきの看病のおかげで回復した。

戦争に行っていた兄が十月ごろ帰ってきたので、両親の骨を拾ってもらい、墓に埋めた。妹の骨は見当たらなかった。両親の骨は灰のようで、二人合わせても、わたしの両手に納まるほどしかなかった。 戦争が終わってほっとしたが、空襲に対する恐怖はなかなか忘れられず、しばらくは飛行機の音を聞くと、身震いしていた。
<私の願い>
戦争は二度としないでほしい。人種や肌の色が違っても、同じ人間として仲良く、愛し合って生きなければならない。

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