あの日、私は金比羅山にある砲台で敵機と戦っていた。一九四四年九月十日に陸軍に入隊。西部第八六〇四部隊に所属し、長崎を守っていた。当時、金比羅山のほかに、稲佐、小榊、星取山など長崎を囲む山という山に兵隊が常駐していた。
砲台では、敵機を眼鏡の照準に合わせながら砲針を操っていた。八月九日の早朝も空襲があり、応戦した。空襲警報は一時、解除されたが、それからずっと砲台で警戒を続けていた。
午前十一時前だった。上司から浦上上空に浮かぶ物体の確認を命ぜられた。空は厚い雲に覆われていたが、ほんの少しだけ見える晴れ間の方向に眼鏡を向けた。落下傘が三つふわふわ浮いていた。周囲に敵機の姿は確認できなかった。
しばらく落下傘の動きを目で追った。「一体、何が付いているのか」。そう思った瞬間、雷のような白い閃光(せんこう)に包まれた。
兵舎のトタン屋根が砲台まで吹き飛び、私は屋根の下敷きになり、気を失っていた。原爆投下から一時間は経過していた。仲間に助け出され、応戦しようと眼鏡をのぞいた。しかし、レンズは爆風で割れ、砲針も曲がっていた。
昼ごろ、直径一、二センチほどの小石の交じった黒い雨が降ってきた。金比羅山には六基の砲台があったが、損壊がひどく、ほとんど発射不能になっていた。退避命令が出され、負傷した仲間たちを金比羅神社の防空ごうまで運んだ。多くの兵の服が焼け焦げ、やけどを負った者の皮膚は焼けただれていた。どんな武器を使い、どんな攻撃をしてきたのか理解できなかった。
あの日の夜、防空ごうで休んでいたら、肩から腹部にかけて左半身が強烈に痛みだした。軍服を脱いでやっと、ことの重大さに気付いた。身体についたうじ虫に肉を食べられる苦痛は言葉では表現できない。すぐに星取山の負傷兵収容施設に入った。それから数日間は記憶がない。
収容施設の負傷兵は重傷者ばかりだった。被爆したその瞬間の姿、格好のまま身体が固まっていた。私も眼鏡に左手を添えていたので、左腕がしばらく下がらなかった。
収容施設のベッドの上で敗戦を告げる昭和天皇の声に耳を傾けた。ラジオ放送を聞いていた仲間の一人が持っていた刀で切腹、さらにもう一人がその刀を抜いて自分の腹に突き刺して命を絶った。ショックだった。戦友たちとしばらく、悔しさと悲しみに暮れた。
<私の願い>
戦火の中で生きる経験は、孫やひ孫の世代には絶対させたくない。多くの仲間の命を奪った原爆をはじめ、核兵器がこの世からなくなることを強く願う。核兵器廃絶を誓わない限り、米国への敵がい心は消えないだろう。