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私の被爆ノート

工場がまるであめのよう

2000年8月31日 掲載
城下健一郎(73) 8月11日に入市被爆 =長崎市茂木町=

十八歳だった私は一九四五年八月九日、茂木町(当時は西彼杵郡)の自宅近くの畑で、朝から農作業をしていた。昼食のため自宅に歩いて戻る途中、長崎市の方向が突然、「ピカッ」とまばゆく光った。直後に突風を感じ、その後、大きな爆音がした。

「茂木に爆弾が落ちたか」と思い、畑の方に引き返して高台に登り周囲を見渡したが、近くには何も被害はないようだった。しかし、長崎市と茂木を隔てている山の上に、原子雲が上がっていた。きれいなキノコの形だったのを、今でもはっきりと覚えている。

「毒ガスかもしれない」と心配で、しばらく様子を見ていた。茂木でも爆風でガラスが割れたり、雨戸が倒れたりする被害が相次いでいた。午後になると、被爆者が長崎から山を越え次々と茂木にやってきた。被爆者は髪がぼさぼさで服は破け、やけどを負っていた。

茂木の料亭など二カ所に救護所が設けられた。その後、当時の婦人会などが救護に当たっていたが、焼け焦げた被爆者たちがトラックやリヤカーで、まるで物のように次々と救護所に運ばれてきていた。

救護所を一、二度見に行った。顔も性別も見分けがつかないほどのやけどやけがを負った人々が、たくさん収容されていた。言葉にならないひどい悪臭が辺りに漂っていた。毎日死人が出て、大人たちが海岸に死体を積み重ねて焼いていた。その海岸には、十年ほど前まで真っ黒な焦げ後の付いた岩が残っていた。

長崎市銭座町(当時)に住んでいた知人夫婦が辛くも防空ごうで難を逃れ生きていたことが分かり、食料を持って訪れたのは十一日。歩いて山を越えた。途中にあった県庁は焼けて真っ黒だった。

駅前を通って銭座町へ向かった。大きかった三菱の工場(三菱長崎造船所幸町工場)が、まるであめのようにひしゃげていた。一面、何もない焼け野原に、人影も家も何もなかった風景を記憶している。

知り合いの夫婦は、持っていったナシを「助かった。わざわざありがとう」と喜んで食べていた。しばらくそこにいたのだが、ほかに何を話したのかよく覚えていない。

今年、茂木町に地元自治会などで原爆犠牲者の慰霊碑を建てた。茂木で亡くなった何百人もの犠牲者に安らかに眠ってほしい。これからもできる限りの供養を続けていきたい。
<私の願い>
被爆地長崎にいる者の叫びとして、人類の滅亡につながる核兵器は絶対になくしてほしい。世界の人々にあの思いを味わわせてはいけない。また、茂木町を含め、被爆地域の拡大是正を、早急に実現してほしい。 。

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