当時三十歳。警察官だった私はあの日、長崎市立山町の県防衛本部に勤務していた。県庁近くの警備巡回を終えた後、防空ごうの整備に励んでいた。
空襲警報は解除されていた。「腹が減った。そろそろ休憩時間かな」と思ったその時、ピカッと光った。気が付くと、爆風でなぎ倒されたレンガ壁の下敷きになっていた。自力ではい出し、同僚を救い出そうとレンガを持ち上げた瞬間、左腕から血が勢いよく噴き出した。力が抜け落ち、その場にしゃがみ込んだ。とりあえず、タオルで止血した。
広島に新型爆弾が投下されたことは知っていた。しかし、この時私はアメリカの爆撃機B29が焼い弾を落としたと思い込んでいた。
原爆投下直後、辺り一面真っ暗になった。中町や長崎駅付近まで燃え盛っていた。爆心地から逃げ延びてきた人々は大やけどを負い、よろよろしていた。死んだ子どもを逆さまに抱いた母親を見掛けたので、「その子はもう死んでいます」と私が声を掛けると、その母親は「この子におっぱいを飲ませんば」と答えた。悲しかった。
その日は防衛本部で一夜を過ごした。十日夜は桜馬場の知人宅に身を寄せた。一晩中熱が出て、体温は四〇度を超えた。看病してくれたおばさんは後日、目立った外傷もなかったのに死んでしまった。救護所で腕の傷口にたまった膿(うみ)を出してもらい、痛みが治まった。
その後数日間、市内各地を歩き回った。爆心地近くはすべてが燃え尽きて何もなかった。三菱の製鋼所や工場は鉄骨が押しつぶされていた。黒焦げの遺体は見たが、人影はほとんどなかった。
全壊した稲佐警察署を目指して、浦上川の稲佐橋を渡った時、「巡査さん。水ば」という声が橋げた付近から聞こえた。帰り際、川をのぞき込んでみたら、その人は息絶えていた。
学校の運動場で多くの死者を火葬した。それが仕事だった。本河内付近では日見方面を目指して、黙々と歩く人々がいた。その列の中、ひときわ大声で歌う男性の姿が思い出される。
銭座町の借家は倒壊した。子どもたちは北高小長井町に疎開しており、無事だった。「敵が上陸してくる」とまことしやかに語られた。今後どうなるのか恐ろしかった。
<私の願い>
原爆投下が戦争終結を早めたという考え方は絶対に許してはならない。それは戦勝国側の奇弁だ。原爆は多くの子ども、住民の命を奪ったとんでもない兵器。原爆投下を正当化させてはならない。