当時十歳。国民学校の五年生だった。東京で生まれ育ったが、戦況が厳しくなり、一九四四年十月、母の故郷である長崎市に疎開した。東京で働いていた父を残し、母と五人の兄弟と一緒だった。
原爆が投下された日。国民学校の運動場で遊んでいると、何かがピカッと光った。空を見ると、風船のようなきのこ雲が立ち上っていた。雲はピンクや青に見えた。防空ごうに逃げ込み、しばらくして家に帰ると、窓ガラスが爆風で割れていたが、母を含め全員が無事だった。
夕方になり、血だらけで服がぼろぼろになりながら逃げて来た人を見て、何が起こったのだろうと恐ろしくなった。夜になると、浦上方面の空が赤く染まり、町が燃えているのが分かった。阪神大震災の時にテレビで見た火災の様子が、被爆当時を思い出させた。火の手が近くまで迫ってきているとのうわさが流れて、鍋冠山まで逃げた。
母は助産婦で、多少医学の知識があったことから、けが人の救護に当たった。母のもとに運ばれてきた人の傷にうじ虫が集まっていた光景は忘れられない。県立長崎工業学校に通っていた兄は同級生を多く亡くした。兄は生き残ったことを悔やんでいた。
終戦になり、米軍が進駐してくるので女性と子供は町を離れるよう勧められ、あてもなく日見や矢上で放浪生活を続けた。食べ物がなく苦しかった。亡くなった人を大八車に積んで運ぶ光景をあちこちで見た。
行く所がなくなり、長崎の市街地に戻った。九月か十月ごろ、東京にいた父が長崎に来た。汽車が到着した浦上駅周辺の惨状を見て、家族は全員死んでしまっただろうと思ったらしい。生きていると分かって、とても喜んでいた。
父親は東京で従事していた仕事を辞め、家族全員で長崎に住むことにした。父は造船関係の会社に勤め、母は助産婦の仕事をしていたが、生活は苦しかった。
高校を卒業後、長崎大学の看護学校に進んだ。大学病院では皮膚がケロイドになった人たちが多く入院しており、悲惨な姿だった。一発であれほどの被害をもたらす核兵器が世界に存在してはならないと思う。
<私の願い>
東海村の臨界事故を見ると、あらためて原子力の恐ろしさを実感する。核兵器はあってはならない。少年犯罪やいじめなどが世間を騒がせているが、若い人には命を大事にしてほしい。