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私の被爆ノート

弟は今も行方知れず

2000年8月11日 掲載
楠本 栄康(73) 爆心地から2.3キロの大黒町で被爆 =長崎市矢の平町2丁目=

当時十八歳。家族は三ツ山町に疎開し、二つ年下の弟と城山町の父の友人宅に下宿し、土井首町にあった県立長崎水産学校に通っていた。学校では授業はされず、防空ごう掘りや、学校近くの造船所などで行われる輸送船の建造作業を手伝っていた。

九日も学校に向かっていた。遅刻しそうだったので学校に行くのをやめ、友人五、六人と長崎駅前の手荷物預かり所で花札をしていた。

十一時を過ぎたころだった。預かり所の向かいの建物が、電車のパンタグラフのスパークの何十倍もの明るさで青白く光った。そして、耳を突き刺すような爆音。私は「長崎駅近くのガスタンクを爆弾が直撃した」と思い、学校で習ったように両手で目と耳をふさぎ、大きく口を開け、舌を出して地面に伏せた。手荷物預かり所は天井のはりが落ち半壊状態。閉じ込められたが、すき間を縫ってはい出た。

脱いでいた制服や履物はどこにあるのか分からずじまい。表に逃げていた三人の友人と勝山小学校を目指すことにした。道には壊れた家の材木やガラスの破片が散乱し、はだしではとても歩けない状態だった。途中、浦上方面から逃げてきた男性と出会う。半そでシャツを着ていたが、肌が露出した部分からは水のような液体が染み出ていた。帽子をかぶった男性は、髪の毛が露出した部分だけ茶色に変色していたのを記憶している。

勝山小にはけが人が次々とやってきた。怖くなり、諏訪神社近くの大きな防空ごうに逃げた。防空ごうの中もけが人ばかりで、泣き声やうめき声が聞こえていた。その日は、本河内にあった友人宅に泊めてもらった。

翌日、逃げてきた道を戻り、三ツ山町の両親のもとを目指した。途中、路面電車も黒焦げになっていた。浦上駅から大橋までは線路を歩いた。浦上川沿いでは顔や体が焼けただれたりした被爆者の「水、水…」というかすれるような声を聞いた。その姿が恐ろしくて助けられなかったことが今でも悔やまれる。

父親は私たち兄弟の下宿先に弟を捜しに通ったが、私は被災地を見るのが怖くて行かず、家にばかりいた。そして、終戦の日を迎えた。下宿で留守番をしていた弟は、今も行方不明のまま。
<私の願い>
全世界から核兵器をなくすことは難しいかもしれないが、人種や国籍で差別することなく人々が交わり、戦争のない平和な世界を築いてほしい。

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