当時十五歳。五島新魚目町の親元を離れ、長崎市文教町(当時の家野町)の純心高等女学校三年生。学校の宿舎から近くの三菱造船所大橋部品工場に通う毎日だったが、いとこの女性教諭に「学校そばの兵器工場が空襲の標的にされ危ないから中川町(現在の中川一丁目)のわたしの下宿に寝泊まりしなさい」と言われ宿舎を出たのは、あの日の一週間前。その下宿から小曽根町にあった三菱造船所分散工場に通い始めたばかりだった。
中が見えないよう窓のカーテンを閉めきった工場では約五十人が鉄の部品を磨く作業などをしていた。突然、ピカッとものすごい雷のような閃光(せんこう)がしてドーンという爆音が響き、とっさに机の下にもぐり込んだ。工場は明かりが消え、暗くて様子は分からず、ガタガタ震えていた。けがはなかった。
しばらくして近くの防空ごうに駆け込んだ。だれもが、われ先にと押し合って中に入った。夕方まで外に出ず、真っ暗な中、持っていた弁当をどれがおかずなのかも分からず、口に詰め込んだ。
帰宅するよう指示を受けて歩きだした。通り掛かった家の玄関先に、腕が泥のように焼けただれて横たわった人がおり、がく然とした。市中心部の空高く煙と火が覆い、地獄にいるようだった。
いとこの下宿周辺はほとんど被害がなく、待っていたいとこが「また新型爆弾が落とされるから日見トンネルに避難しましょう」と頭にかぶる鉄なべと丹前を持って出た。長崎の全市民が日見トンネルに向かっているかのような行列だった。顔がやけどで膨れ、目と口だけしか分からないような重傷を負った人もいた。真っ暗なトンネルで不安な夜を過ごした。
終戦の日、下宿でラジオを聞いた。気丈ないとこは涙を流した。わたしは「これで戦争がなくなる」とうれしく思ったが、その気持ちを隠していた。数日後、五島から父が来た。「おまえを連れに来た。学校はいいから一緒に帰れ」と船で実家に帰った。母は、父が遺灰を持って帰ると思っていたらしく、わたしの姿を見ると涙を流して無事を喜んだ。その後、親しかった学校の友人が大橋部品工場で即死したと聞いた。もし、いとこの下宿に移っていなかったら同じ運命だった。
<私の願い>
悲惨な戦争はもうたくさん。友人の命も奪った。核兵器は何の役にも立たない。なぜ核実験を続けるのか憤りを感じる。絶対に廃絶すべき。世界の平和を願う。