当時十七歳。三菱工業青年学校に通いながら、三菱長崎造船所で週二回程度、見習工として働いていた。
あの日は朝から同造船所の上司に頼まれ、船の圧力計を取りに三菱製機(丸尾町)に自転車で向かった。
工場では約十五人が働いていた。その中の一人と修理が完了した圧力計の部品のことについて話していると、突然、強烈な光が視界に入ってきた。雷が千個ぐらい落ちたような感じだった。
何が何だか分からないまま起き上がると、みんなが爆風で一カ所に吹き寄せられ、中からうめき声が聞こえた。何人かは全く動かず死んでいるようだった。
どれくらい時間が経過しただろうか。外から「新型爆弾が落ちたので、避難しろ」と声が聞こえてきた。足や手にやけどをしていたが、無我夢中で同造船所内の防空ごうを目指して逃げた。痛さは不思議と感じなかった。
ようやく到着した防空ごうには、大勢の負傷者が運び込まれていた。足がずきずきと痛みだし、足裏を見るとたくさんのガラスの破片が刺さっていた。裸足(はだし)でがれきの中を歩いてきたせいだろう。
だが、私のけがは周囲の負傷者に比べるとまだまだ軽い。近くの大人に「けが人を看病しろ」と言われ、「どうせ助からないのなら、せめて水だけでも与えてあげたい」と、足の痛みを我慢して水をくんできては負傷者に飲ませた。
数日後、最も被害が大きい浦上地区に死体を片付けに行くよう指示された。苦しくてつらい日々の始まりだった。
二人一組で焼け焦げた遺体を持ち上げては運ぶ作業の繰り返し。死体のそばでおにぎりを食べ、そして体を休めた。悪臭が漂っているせいか気分が悪くなり、鼻血が出る日もあった。
「これ以上ここにいるとこっちが死んでしまう」。原爆投下の日から十日ぐらいが過ぎていただろうか。友人と二人で作業を抜け出し、道の尾駅から汽車に乗り、松浦の実家に戻った。
その後の半年間は入退院の繰り返しだった。鼻血や歯茎からの出血、やけどの痛み、脱毛…。一時は危篤状態に陥り「もうだめか」と死を覚悟したが、今でも何とか生きている。
<私の願い>
多くの悲惨な死を目の当たりにしてきた。五十五年たった今でも暑くなるとあの日を思い出す。人類を滅ぼす核兵器と戦争をこの世から永久に追放し、平和な未来を築いてほしい。