当時十八歳。県立長崎高等女学校を卒業し、佐古国民学校で教師をしていた。
あの日、学校に児童はいなかったが、教師は登校していた。突然オレンジ色の光が走り、ものすごい爆風が校舎を通り過ぎた。とっさに教室の床に伏せ、身を守った。その後、校庭の横にあった防空ごうに逃げ込み、しばらく時間を過ごした。幸い、大きなけがをした先生はいなかった。頭から出血した先生が病院に行ったが、病院に運び込まれた人たちのけががひどく、「自分の傷は軽過ぎる」と思い治療を受けずに帰ってきた。
午後三時ごろになり、同僚の先生たちと校舎の屋上に上り、市内を見回した。県庁の辺りに黒煙が立ち込め、浦上方面が灰色に煙って見えた。何が起こったのか分からなかった。同僚が「これは新型爆弾、風船爆弾という物らしい」と言いながら、不安そうな表情だったことを覚えている。投下された爆弾が原子爆弾で、長崎と広島の人々に放射線の被害を与える見えない凶器だったことを知ったのは、後になってからだ。
夕方になり、疎開していた茂木へ帰ることにした。山を越え、家に近づくと、心配していた母親が走り寄って来て、抱き合って無事を喜んだ。終戦と同時に教職を辞めた。終戦の翌年、母親が亡くなり、福岡市に移り住んだ。
当時の記憶は薄れ、戦争のことも過去のものとなっていた一九八二年、自覚症状がないまま、末期がんと診断された。手術が不可能な状態で、放射線を照射する治療をすることになった。原爆の放射線を浴びた体を放射線で治療することに、皮肉めいたものを感じずにはいられなかった。
治療から十八年が過ぎた今も、治療による放射線の後遺症と闘い続けている。今年初めには、放射線の影響で腸閉塞(へいそく)になったが、治療のおかげで、体調を保っている。
チェルノブイリ原発事故が多くのがん患者を生み、東海村の臨界事故で被ばくした人が亡くなるなど、痛ましい事故が続いている。ある時は人類に豊かさをもたらす物質も、使い方を誤れば、人類はおろか自然そのものさえ滅亡に追い込むものであることを後世に語り継ぎたいと思っている。
<私の願い>
原爆の恐ろしさを後世に伝えるため、政府は被爆者の人生を追跡調査し、被爆の実態を明らかにしてほしい。