原爆が投下された一九四五年当時、西彼香焼村(現在の香焼町)にあった造船所の香焼工場で働いていた。八月九日は休みを取って、朝から長崎市鳴滝町(現在の鳴滝二丁目)の自宅近くにあったイモ畑で農作業をしていた。
午前十一時二分、金比羅山の方が「ピカッ」と光った。同時にものすごい爆風が吹き、畑のわきの溝まで飛ばされた。そのとき頭を打ち、しばらくは溝の中から動けなかった。数分後、空が真っ暗になり、一瞬、「世の中から何もなくなってしまったのではないか」という錯覚に陥った。
われに返ると、自宅にいた妻や娘のことが気になって、二百メートルほどの坂を駆け下りた。自宅は扉や窓ガラス、かわらなどは吹き飛ばされ半壊していた。妻は娘を連れて防空ごうに避難しており無事だった。
二日後の十一日、工場に出勤すると、同じ会社が経営していた浦上工場の従業員の行方が分からなくなっているということで、同僚らと浦上方面に捜しに向かった。
浦上工場は燃えてなくなっていた。同工場付近は爆心地に近く、辺りには全身焼けただれた多くの人が倒れていた。もし知人がいても判別がつかないほどだった。
仲間を捜している途中、道端に倒れている多くの人から「兄さん水ばくれんね」と足を引っ張られたが、同僚から「水を飲ませると早く死んでしまう」と聞いていたので、水をあげなかった。一日でも長く生きてほしいという気持ちで断り続けていたが、だんだん断るのがつらくなって倒れている人を避けて歩いた。今でも「飲ませてあげた方がよかったのでは」と思うことがある。
浦上川に架かっていた橋の欄干にもたれかかり立ったまま息絶えていた女性や、水を求めて浦上川に入り、そのまま死んでしまった大勢の人たちの姿は鮮明に覚えている。浦上川を見ると今でもまぶたが熱くなる。自宅近くの伊良林小学校の校庭で、身元の分からない遺体が次々に燃やされていた光景も忘れられない。
<私の願い>
ニュースで世界各地で起きている内戦や空腹に耐える難民の姿などを見ると戦時中を思い出す。戦争は権力を握っている一部の人間のエゴで起きていると思うが、犠牲になるのは一般市民。核兵器の廃絶はもちろん、戦争のない世の中を望む。