東京で看護婦資格を取得していたため一九三六年、旧日本海軍に従軍看護婦として召集された。大村市出身を理由に佐世保海兵団所属となりビルマなど戦地を転々としたあと中国東北部(満州)へ。
四五年七月二十六日、仲間の看護婦約五十人や医師らと、長崎市の長崎医科大学付属医院(現長崎大医学部付属病院)に引き揚げてきた。当時二十九歳。
原爆投下の前夜、医師が「早めの盆休みを取ろう。あした昼食を済ませたら、みんな自宅に帰ろう」と言ったが、大村市の実家に子どもを預けていたので、早く帰りたいと申し出た。結果的に大村方面の看護婦五人と、医師一人が付属医院に宿泊せず帰宅した。
九日、大村市内の海岸そばにあった実家から、長崎方面が燃えているのが分かった。夜は目と鼻の先で火事が起きたように見え、空は昼間のように明るかった。十日、海軍の大村部隊から被災者の救援要請があった。知り合いの看護婦と二人で十一日、かき集めた食料を持って軍人たちが乗る軍用車で長崎へ向かった。
浦上方面へ車は入れず、途中から徒歩で付属医院へ。爆心地付近はおおかた燃え尽きていた。道端で「水、水…」と声を上げる人たちに足をつかまれ、助けを求められたがなすすべはなかった。仲間の医師や看護婦は全員死亡し、鉄筋の付属医院も機能していなかった。
医療器具や薬品がないので息がある被爆者をトラックに乗せては、大村などの病院へ搬送してもらうのがやっとだった。搬送以前に亡くなった人は、爆心地近くで火葬にした。作業する人に、家族がいた場合を考えて身元が分かるものを保管するよう頼んだが、青年団などが次々と遺体を運び込むため、身元も確認されずだびに付される人ばかりで、哀れだった。
その日のうちに爆心地からやや離れた城山町に廃材で小屋を造り、約二カ月間、被爆者の看護に明け暮れた。患者の体内には、熱線で溶けたガラスやかわらが無数に突き刺さっており、連日破片を取り除いた。
被爆で臓器不全を起こし、腹が膨れ上がった子どもたちも多かった。被爆者は水を飲ませると死亡するので、どれだけ水が欲しいと頼まれても「ちょっと待っていてね」と断り続けた。
少しの間でも長く、人を生かし命を守るのが看護婦の使命とはいえ、死を目前にした被爆者の苦痛を和らげることができなかったのはつらかった。
<私の願い>
これ以上、もう二度と戦争による犠牲者を出さないために、戦争を放棄すること。国政を預かる立場にある人たちは、私利私欲に走ることなく、いつ何時も、国民を守る立場に立ち続けるようお願いしたい。