吉川 ヤエ
吉川 ヤエ(72)
被爆者の救護活動で被爆 =東彼川棚町城山=

私の被爆ノート

負傷し泣き叫ぶ韓国人

2000年7月5日 掲載
吉川 ヤエ
吉川 ヤエ(72) 被爆者の救護活動で被爆 =東彼川棚町城山=

当時十七歳。現在の国立療養所川棚病院に勤務していた。川棚町には川棚海軍工廠(しょう)があり、主に航空魚雷を製造していた。魚雷艇訓練所が設置され、特別攻撃隊嵐部隊が編成されるなど、戦況は行き詰まっていた。私たちは「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に看護に当たっていた。戦争は日増しに激しくなり、物資不足で包帯の材料にも事欠くありさまだった。

八月九日は、朝から焼け付くような暑い日だった。当番の日だったので病院で包帯の消毒作業をしていると、ピカッと稲妻のような光が目の前を走り、ハッとして地面に伏せた。しばらくして目を上げると、遠くの方に真っ黒い煙のようなものがモクモクと上がっていた。

寄宿舎に帰ると、全員集合の笛が鳴り渡り、婦長が出てきた。婦長は「長崎に新型爆弾が落とされ、死傷者が多数います。これから川棚にも運ばれるので準備をして直ちに玄関前に集合」と怖い顔で伝達した。急いで薬品、注射器、包帯などの確認を終えると、院長の指示で病院から五百メートルほど離れた農業高校の武道館に向かった。

武道館には警防団員が板張りに毛布を敷き詰め、ろうそくに火をともして待機していた。間もなく患者を乗せたトラックが到着。担架に乗せ、転がすように毛布の上に降ろした。髪の毛は逆立ち、服はボロボロにちぎれていた。息も絶え絶えに水を欲しがる人、泣き叫ぶ人。全身黒焦げで、前後の見分けがつかない人もいた。

中には韓国人もいた。ひときわ高い声で泣き叫んでいた。朴さんという患者の背中には無数のガラス片が刺さっており、ピンセットで一つ一つ抜いた。熱でうなされているのかと思い、耳を近づけると「アリラーン、アリラーン」と祖国の歌を歌っていた。

三日後には多くの人が亡くなっており、患者の数が減っていた。朴さんは助かったが首の傷とやけどがひどく、耳の中にうじ虫がわいていた。ピンセットで数が分からないほどたくさん取り除いた。間もなく朴さんは回復し、祖国に帰って行った。

あの日から五十五年。悲惨な光景が今でも鮮明によみがえる。「被爆補償の問題で、韓国人被爆者が長崎を訪問」のニュースを見るたび、もしやあの時の朴さんではないかと見入ってしまう。
<私の願い>
終戦後は養護教諭として小・中学校に勤務。「教え子を再び戦場に送らない」をスローガンに子供たちと接してきた。核兵器の恐ろしさを世界中に伝え、二度と戦争を起こさず、平和な暮らしが続くよう願っている。

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