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私の被爆ノート

指先に残る死体の感触

2000年6月23日 掲載
野中大四郎(71) 原爆投下の8日後に入市被爆 =西彼大瀬戸町瀬戸西浜郷=

当時十五歳。前年まで長崎工業学校(現在の長崎工業高校)に在学していたが、志願して軍隊に入り、鹿屋航空隊(鹿児島県)の特攻基地で訓練を受けていた。訓練と言っても飛行訓練ではなく、砂浜に穴を掘り、爆弾を抱えて体当たりする「人間爆弾」の練習。そんな状況でも「日本は必ず勝つ。国のため、天皇陛下のため一身をささげよう」と心に誓っていた。

一九四五年八月十五日、臨時召集があり、上官から「終戦だ」と聞かされた。日本が負けたという。信じられずぼうぜんとしていると、仲間から「長崎に新型爆弾が落ちた。町は全滅だ。君は帰るところがないぞ」と言われた。心配になって大瀬戸の実家に電話したが、父は「大瀬戸はピカッと光った程度で被害はない」という。少しほっとした。

翌日鹿屋をたち、汽車で長崎へ向かった。十七日の昼、長与に到着すると「この先は汽車で行けません」と車内放送があり、歩いて大波止まで行くことにした。その途中の光景は悲惨で、もう二度と見たくないと思う。

浦上の辺りは一面のがれきの山。遠くに見える山影で「このあたりが浦上か」とようやく分かった。警察官があちこちに死体を積み上げ、火を付けて焼いていた。「これはいったいなんだろう」と信じられず、ただ驚くばかりだった。

ふと、黒焦げの死体が目に留まった。鹿屋では戦友が爆撃で死んだが、その顔や体はきれいなままだった。「これが同じ爆弾で死んだ体か」と思うとどうにも不思議だった。気付いたらその死体を指で押していた。ずるっと指先が滑り、黒焦げの皮がはげて真っ赤な肉が見えた。その感触は今でも指先に残っている。

大波止の旅館に着き「何があったのか」と聞くと、店の人は「ピカドンが落ちた。ものすごい光と音しか記憶にない」と言った。長崎の実態を見て「大瀬戸も無事ではないだろう」と心配になった。

翌朝、船で神浦に着き、大瀬戸に帰ると赤痢が大流行していたが、家も家族も無事だった。しかし長崎で働いていた友人が大勢、原爆で亡くなったと聞かされた。「日本は勝つ」と信じ切っていた私にとって、この体験は強烈だった。心の糧を失い、一年ぐらい失意の日々を過ごした。
<私の願い>
原爆と戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない。私たちは最初で最後の体験者であってほしい。核兵器の存在は人類の滅亡につながる。原爆の実相を世界に伝え、核兵器の廃絶と平和の実現を訴えていきたい。

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