一九四五年の春、旧制佐賀高校に合格していたが、入学式はなく、動員先で作業を続けなければならなかった。六月からは東彼川棚町にあった海軍工廠(しょう)分工場に動員され、防空ごうの横穴の中で魚雷作りに従事していた。
八月九日、屋外で作業していた私たちは「ドーン」という、今思えば原爆がさく裂した音を聞き、「何だろうか」と顔を見合わせた。翌十日の昼ごろ「即時、救援隊として三日間、長崎市へ向かえ」と工廠側に指示された。
上陸用舟艇に分乗し、時津に到着したのが午後八時。そこから歩かされ、浦上に着いたのは午後十一時だった。途中、死体を運ぶ人たちと擦れ違ったり、山の方では燃え残りの木を集めて死体を燃やしている火が、やみの中に見えた。
この夜も、翌日以後も浦上にあった三菱兵器工場の横穴防空ごうで寝たのだと思う。だが、浦上は不案内であるうえに、目印になる物もないありさまで、この防空ごうの詳しい場所は今でもよく分からない。
翌朝はまず、この防空ごうの近くで、道行く人の治療に当たった。周りは焼け野原でびっくりした。焼い弾の被害と異なり、木造の建造物の骨組みさえない。ねじ曲がった鉄骨だけが残っている。
私の班は三十五人ぐらいいたと思う。衣類は焼け、顔もやけどでただれているけが人に呼び掛け、軍医の治療の後、私たちがガーゼを当てて目、鼻、口の部分を切り抜いた。あのけが人たちの多くは、亡くなったのではないか。それぐらい傷はひどかった。
午後は山の方へ巡回治療に出た。馬も何頭か死んでいて、ひどいにおいがした。まだ山は少し燃えていた。帰り道、道端にずらっと死体が並んでいるのを見て、何とも言えない気持ちがした。
十二日は商業高校へ。ばらばらと倒れている人を校舎の玄関や廊下へ運んで並べた。目玉が飛び出している人が「助けて」と言ったことを強く覚えている。助かる見込みがないようなひどいけが人の場合は、軍医が目で「請け合うな」と合図をした。
大橋まで来ていた列車にけが人を載せたり、現在の西彼長与町の長与小まで約十キロの道のりを、重傷者を担架で運んだりして夜中まで働いた。あちこちからいろんな命令が来て大変だった。
十三日の午後四時半ごろ帰途に就いた。平戸の実家に帰ったが、その後二十日間ほど下痢が続いた。当時は原爆の影響などということは考え付かなかった。(平戸)
<私の願い>
原爆のものすごい威力と、被爆の実態を核保有国にもっと知ってほしい。育ち盛りの時期を戦争ばかりで過ごし、終戦後に自由の素晴らしさを実感した。この平和を守り続けねばならない。