長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

頭髪抜け、体中にできもの

2000年6月1日 掲載
柴田 一(67) 爆心地から700メートルの坂本町で被爆 =長崎市樺島町=

当時十二歳。中学一年で坂本町の山王神社近くに下宿していた。通っていた海星中学校ではグラウンドで農作業をするなど、生徒は皆、勤労奉仕をしていた。

九日も朝から学校に向かっていたが、途中で空襲警報があり、自転車を借りて下宿に戻ることにした。帰る途中に空襲警報が解除となり、再び学校へ向かうが、二度目の空襲警報があり、結局、下宿に帰った。

下宿のおばさんと昼食の支度をしていた時だった。一瞬、せん光が走り、同時に爆音が響き、吹き飛ばされた。一階にいたはずだったが、しばらくして気が付くと下宿の二階の天井がすぐ目の前にあった。家がつぶれ下敷きになったのだ。ふと、下宿のお姉さん、倉田しげこさんが自分の名前を呼んでいることに気が付いた。手足は挟まれなかったので、はって外に出た。

せん光を見たために目がくらみ、うっすらとしか見えなくなったので、しげこさんに連れられ、近くのほこら「穴弘法」に行った。下宿からほこらまでの道では全身焼けただれた人を見掛けた。しげこさんは「家族を捜しに行く」と言い残し、下宿の方へと引き返した。しげこさんと会ったのはそれが最後。二十四日に原爆症で亡くなったと聞いたのは、しばらくたってからのことだった。

十一日に列車で家族が疎開している南高千々石町まで向かった。頭髪が抜け、体中にできものができたり、出血が止まらなくなるなどの原爆症で苦しんだ。

今まで、自分が被爆したことを人に話すことはなかった。被爆直後、家の下敷きになった人や大けがした人が「助けてー」「もうだめだから先に逃げてー」と叫んだ声が思い出され、胸が痛むと同時に涙が止まらなくなるからだ。

自分が被爆した坂本町の下宿があった場所を再び訪れたのは、数十年たってからのことだった。被爆直後は気にすることもなかったが、山王神社の鳥居は一本足で立っていた。
<私の願い>
全世界から核兵器をなくし、原爆投下といういまいましい経験を二度と繰り返さないでほしい。

ページ上部へ