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私の被爆ノート

死体運ぶと皮膚が手に

2000年5月25日 掲載
森下 晃誠(70) 8月10日に入市被爆 =南高小浜町北本町=

当時は諫早公園に大村空廠(しょう)=海軍航空廠=の発動機部があり、諫早中学校四年だったわたしは学徒動員で飛行機のエンジンを分解していた。

八月九日。昼近くになって「グオー」という腹の底に響くような音がした。みんな「何事だ」と仕事をやめて外に飛び出した。しかし何もないので仕事を続けていた。

それから二時間ほどたったころ、「長崎に特殊爆弾が落ちたそうだ」とうわさが広がった。また一時間ぐらいして、頭から額から血を流した人たちが大八車に乗せられ、運ばれてきた。歩いてくる人の服や皮膚は焼けただれていた。「どうしたんですか。大丈夫ですか」と尋ねても黙り込んだまま無気力に歩き続けていた。

翌朝。「中学生集合。ただちに長崎へ行くぞ」。工場長の命令でトラックに乗り込んだ。

長崎の街は焼け野原だった。悪臭が脳を刺激して涙が止まらない。特殊爆弾の威力に一同あぜんとした。友人と担架を使ってあちこちにある死体を運んだ。死体を持つと死体の皮膚がべっとりと手のひらに付いた。手袋などだれも持っていない時代。両手を何度もこすり合わせて落とした。

中学一年で父親を亡くしたわたしは、実家が寺のため住職代理を務めていた。担架で運びながら成仏を願って読経したことを思い出す。死体は溝のように細長く掘った所に降ろしていった。だれがだれか全くわからなかった。

夜、道の尾駅近くにある倒壊を免れた工場跡にゲートルを巻いたまま寝た。翌朝、工場近くのれんが造りの倉庫でカボチャを見つけ、みんなで煮て食べた。間もなく、ものすごい腹痛に襲われ、黄色い水のような便が走り下った。動くことができず、体をよじって耐えるばかりだった。その日のうちに諫早の下宿に戻ったが、腹痛と下痢はしばらく続いた。もちろん「放射能」という言葉も知らず、健康だった体の突然の変調に不安を覚えた。

終戦になり学校での授業が始まったが、講堂や剣道場は原爆で傷ついた人たちの仮の野戦病院のようになっていた。鼻や耳からうじ虫が出ている人が「水をくれ」とうめいている光景は今でも頭から離れない。
<私の願い>
七十年の人生を顧みて、平和の尊さを痛感するとともに青少年の凶行には悲しみを覚える。尊い犠牲のうえに今の日本があることを認識すべき。核兵器は人道上許されない。相手の自尊心を傷つけず、互いを尊重すれば世界の紛争や争いは起きないと思う。

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