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私の被爆ノート

立ったまま息絶えた人も

2000年5月18日 掲載
浜本 宮太(88) 爆心地から4キロの木場郷(現在の三ツ山町)で被爆 =長崎市三ツ山町=

当時三十三歳。長崎市稲佐町に妻、五歳の長女、二歳の長男との四人暮らしだった。立神にあった三菱長崎造船所でクレーンの運転工として、船体を造る仕事をしていた。

米軍の攻撃が激しくなり、三ツ山の雑木林に家族が避難する家を建てようと、八月七日から義理の弟二人とともに建設現場に通っていた。

作業を始めて三日目のあの日。午前九時ごろ現場に着き、屋根の取り付けなどをしていると、米軍の飛行機が頭上を飛び去った。「いつも飛んで来る方向と違うな」と思いながらも、早く家を完成させようと、上を見ることもなく作業を続けた。

突然、目がくらむような光。「キャーン」という金属が激しくぶつかり合ったような音が響いたかと思うと、爆風で一気に屋根の下に吹き飛ばされていた。

五分ほどして義弟の無事を確認。造りかけの家の屋根に上がると、長崎の街が燃えて、真っ赤に染まっていた。空も燃えているような感じだった。ただごとではない。義弟らは長崎に向け走りだした。私も、手伝いに来ていた実弟と一緒に出発した。

一キロほど走ると、向こうからとぼとぼ歩いてくる人影が見えた。近づいて見ると、皮膚がはげて垂れ下がっていた。言葉も話さず、魂が抜けているよう。次に会った二人連れの男性は「長崎は全滅です。広島に落ちた新型爆弾と同じですね」と話した。

浦上水源地付近まで来ると、川に沿って植えられていた大きなクスの木が折れており「すさまじい爆風だったんだな」と想像した。

大橋付近で川を見ると、川の水に向かって多くの人が倒れていたが、ほとんどが動かなかった。黒焦げになった電車の中には、立ったまま息絶えた人の姿もあった。

山道を通り、やっとの思いで自宅に着くと、だれもいなかったが、近くの防空ごうで妻と二人の子供に再会。無事を喜び合った。

その夜は自宅のそばにあった親類の畑で過ごした。見下ろした長崎の街は夜になっても燃え続けていた。稲佐山の山頂付近にも火の手が及んでいたので怖かった。

翌日、まだ薄暗いうちに親類ら十人ほどで三ツ山に向かった。あちこちで死体を焼く光景があった。その時の鼻を突くにおいは今も忘れられない。

十日間ほど三ツ山で過ごした後、故郷の五島に戻った。妻は農業の経験がなく、体も弱かったので、五島での生活はとても苦しかった。
<私の願い>
核抑止力で平和を保つのは無理。核兵器を廃絶すべきなのは当たり前だが、核兵器が使用されない平和な世界をつくるために、子供らへの平和教育を徹底してほしい。

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