児島ソエ子
児島ソエ子(70)
爆心地から3.6キロ、長崎市本石灰町の三菱造船所白菊寮で被爆 =佐世保市有福町=

私の被爆ノート

同僚亡くなり、悲しくて

2000年5月12日 掲載
児島ソエ子
児島ソエ子(70) 爆心地から3.6キロ、長崎市本石灰町の三菱造船所白菊寮で被爆 =佐世保市有福町=

当時は十六歳で、三菱長崎造船所に勤務。長崎市本石灰町の同造船所白菊寮から戸町トンネルの軍需工場に通勤していた。

あの日は、夜勤だったので寮で寝ていた。突然、強い光やドドドーンと大きなものすごい音、ガラスの割れる音などにびっくりして跳び起きた。反射的に押し入れの布団の中に逃げ込み、じっとしていた。

「何がどうなったのだろう」と思ったが、状況は分からなかった。しばらくして恐る恐る部屋を出ると、顔を真っ黒にした同僚に出くわした。食事の用意をしていたという。寮の建物は爆風でかわらが飛んだり、窓ガラスが割れるなどの被害を受けていた。寮長が「山に避難するから、布団をかぶれ」と命令。寮に居た全員は山に登り、竹やぶの中で野宿した。後で「新型爆弾が落ちた」などと聞いた。

翌日か翌々日に寮に戻ると、全身に大やけどを負った同僚がつえを突いて帰ってきた。その同僚を連れて行った田上療養所は被災者でいっぱい。医師や看護婦が不足していたのか、私たち仲間が二、三人交代で付きっきりの看護をした。看護といっても、自分たちではどうすることもできず、口に水を含ませてやることぐらいしかしてやれなかった。看護のかいもなく二、三日後に亡くなり、「悲しくて、悲しくて」みんなで泣いた。

火葬するため長崎駅前の寺まで、戸板に乗せて六、七人で運ぶことになった。街は建物が倒壊、焼け野原のがれきの山で一面灰色の世界。「世の中はどうなったのだろうか」と不安だったが、頭の中は真っ白で考える余裕などなかった。

寺までの道路は灰が積もり、ズックを履いた足が異常に熱い。「アチッ、アチッ」と言いながら歩いた。寺に着くと本堂など倒壊し、境内には遺体が山積みされていた。住職は居なかったので、自分たちで板切れを集めて火をつけた。焼くのに長い時間がかかり、みんなで手を合わせて拝んだ。ショックで涙があふれ出てきた。

終戦後、佐世保に帰って来て「生きているのだ」と実感した。あの日の出来事は思いだしたくない。被爆を忘れよう忘れようと思いながら五十年以上たってしまった。今でも、風邪をひきやすいなど体の調子が悪く、苦しんでいる。(佐世保)
<私の願い>
同僚たちが大勢亡くなり、かわいそうでたまらない。忘れようと思っても忘れられない被爆体験。二度とこのような戦争があってはならないと強く願う。しかし、紛争や核実験は続いており、核兵器のない平和な世界を希望している。

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