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私の被爆ノート

体つねり“生”実感

2000年4月28日 掲載
柳原 英子(70) 爆心地から約1.2キロの茂里町で被爆 =西彼長与町丸田郷=

当時私は十五歳。県立高等女学校の四年生で、報国隊員として茂里町の三菱兵器製作所茂里町工場に通っていた。前日は体調が悪くて休み、その日も母が「休んだら」と言ったが、友達が来たため、一緒に長与駅から汽車で出勤した。

原爆が落下する十分ほど前に工場に着いた。私たちの作業場は二階にあり、友達や工員など約十人で作業台の周りにいたとき、ピカッときれいな光が走ったため、全員その場に伏せた。

気付いたときは真っ暗やみ。「お母さん助けて」と夢中で声を出した。伏せた後、体が回転したような気がした。手探りで外に出ようとしていたとき、男性の声が聞こえた。その方向を向いたら光がさし、その後、だれかに引きずり上げてもらった。後から、そばにいた女性は台の下敷きになって死亡していたと聞き、恐怖心が一気に込み上げてきた。

外は足の踏み場もない状態だった。鋳物工場からの避難者は黒くすすけていたり、顔中血だらけの人もいた。私は右の首筋や手首にやけどをし、足を痛めていたが、逃げるのに精いっぱいだった。

近くにある防空ごうは避難してきた人であふれ、中には既に亡くなったり、息も絶え絶えの人がいた。医大方向から来る人も裸同然で避難。逃げる途中、無性に水が飲みたくて川の水でもいいと思ったが、一緒にいた友達に止められた。

そのうち、腰から下が痛くなり、足も曲げられずに動けなくなった。通り掛かりの男性から、どこへ帰るのか尋ねられた。長与と父の名前を言ったら、自分も長与へ帰ると言って、動けない私を背負って、国鉄の線路伝いに歩き始めた。

六地蔵付近に来たとき、列車が止まっており、それに乗せてもらい、午後八時ごろ帰宅した。しかし、大橋など途中では、黒焦げになって亡くなった人や馬の死体などがあちこちにあり、重傷者のうめき声や悲鳴なども聞こえ、まさに地獄のようだった。

しばらくは床に伏せた状態が続いた。母が「安静」と言っているのを聞いて、毎朝体をつねっては生きていることを実感した。その後、被爆の後遺症のためか、体がむくんだり、鼻血が出るなどした。若いころ髪をすくとくしに絡まって抜けるのがつらかった。

あれから五十五年。今も大橋付近を通ると、あの時がよみがえり涙が出る。後遺症が残っているが、亡くなった友達のため少しでも長生きして供養したい。
<私の願い>
平和な今の時代が夢のようだ。あの時の悲惨な光景、原因不明の体調の不良などの苦しみ、つらさは今でも忘れられない。同じ人間が殺し合ったり、人類を滅亡に導くような核戦争は、もう二度とあってほしくない。

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