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私の被爆ノート

爆風に吹き飛ばされる

2000年4月20日 掲載
三原 美代(73) 爆心地から約3.5キロの滑石町(現在の滑石2丁目)の自宅で被爆 =長崎市滑石4丁目=

当時は十八歳で、県立高等女学校専攻科に在籍していたが、学徒動員のため三菱電機淵工場で働き、探照灯など電機関連の部品を造っていた。食糧事情は日に日に悪化し、大豆の搾りかすをご飯に交ぜたものやクジラの缶詰などを食べていた。

九日は体調を崩し、長崎市滑石町の自宅で休んでいた。お昼前に激しい衝撃と爆風に見舞われ、家のガラスや壁などと一緒に吹き飛ばされた。

それまで、工場で働いている時などに防空ごうに逃げたことはあったが、爆弾が近くに落ちたことはなかった。あまりにも激しい衝撃だったので、その時は、隣の造り酒屋に爆弾が直撃したのではないかと思った。

外へ出てみると、浦上の方から黄色い煙が立ち上っていた。家の中にいたので無傷だったが、何が起きたのかが理解できず、戸惑った。爆発の瞬間、庭にいた兄はせん光を見たが、とっさに手をかざしたため、目をやられずにすんだ。

しばらくすると、三重方面に帰る人や被爆して負傷した人などが次々とやってきた。真夏で薄着の人が多く、ボロボロの布切れが肩からかかっているような状態だった。近所に軍医さんがいたので、多くのけが人が運ばれた。中には、その場にあるもので急ごしらえした担架で運ばれた人もいて、けが人に目を向けるのが怖かった。多くの遺体をだびに付す光景も目に焼きつき、今でも強く印象に残っている。

戦後結婚した夫は、当時、海軍の訓練生だった。長崎市城山町にいた夫の両親も被爆し、父親は家の下敷きになり死亡、母親も原爆症に苦しみ、終戦直後に亡くなった。夫は、戦争で両親のほかにも多くの同僚を失い、戦後、遺族を訪ね歩き、愛国心を背負いながら死んでいった同僚の霊前に、感謝状をささげてまわった。

十八年前に亡くなった夫とは、原爆のことについて話したことは一度もなく、私自身、被爆した当時の話をほかの人にすることもなかった。

今は一人で生活しているが、ふと、原爆や戦争のことを思い出す。戦争によって、志半ばで命を断たれた人たちのことが痛ましくてならない。
<私の願い>
時代の流れで戦争のことが風化され、亡くなった多くの人の気持ちを無にしているように感じることがある。これからも戦争のことを言い伝え、二度とこのような過ちが繰り返されないようにしてほしい。

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