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私の被爆ノート

だびに付す光景が日常に

2000年4月13日 掲載
喜多 チヨ(91) 爆心地から約1.2キロの稲佐町2丁目で被爆 =長崎市三ツ山町、恵の丘長崎原爆ホーム別館入所=

当時私は三十六歳。夫は出征しており、長崎市稲佐町三丁目に夫の両親と下宿人何人かと住んでいた。子供は諫早市の主人の実家に疎開。戦火は日ごとに激しさを増した。空襲警報のサイレンが鳴って爆撃機が近づいてくる感じが分かっても、私は足が不自由で逃げ遅れることがあり、恐ろしい毎日だった。

あの日は、近くの銀行に用があり出掛けていた。銀行の前でピカッとせん光がしたのですぐに伏せると、すさまじい爆風で吹き飛ばされた。気が付くと、辺りは煙か何かで暗黒の世界。どこからともなく助けを求める叫び声や泣き声が聞こえた。

倒壊した木材が積み重なっており、近くにあったスリッパを手にはめて、四つんばいで無我夢中で逃げた。折り重なった木材の上から下りられずに、通り掛かった消防団の人に助けられた。

爆弾がどこに落ちたのかと高台から見下ろすと、県庁方面が火の海になっているのが見えた。「県庁を狙ったのだろう」と当時は思っていた。自宅が近くなるにつれ、負傷者の姿が見受けられるようになった。

その姿は想像を絶する状態。顔にガラスの破片が突き刺さった人、肩から腕にかけてはがれた皮膚がぶらさがっている人…。こんなことがあるのかと、脳裏に焼きついた悲惨な姿が今でも目に浮かぶ。傷にうじがたかった人もいたことを思うと、自分がけがもなく助かったのが信じられない。

自宅は爆風で倒壊していた。家族は何とか無事だったが、下宿人の一人が逃げ遅れて家屋の下敷きになり死んでいた。崩れた建物で青天井の生活が始まった。配給の飲み水や食糧をもらいに町を歩けば、亡くなった方の死体や骨がゴロゴロしているような状態だった。

昼間からあちこちで、だれとも分からない死体をだびに付す煙が立ち上る光景を目にした。こうした光景が日常となっていた。大八車に乗せられたけが人が「水がほしか、水がほしか…」と言いながら運ばれる姿も覚えている。当時は自分が生きることで精いっぱい。泥水を飲み、渇きをいやすようなこともあった。

大浦方面に住んでいた兄が無事で、しばらく厄介になった。終戦を迎え、私も諫早市に移り住んだ。思い出すのもつらく、一生忘れることができないだろう。
<私の願い>
若くして亡くなった人たちのことを思うと、かわいそうで仕方がない。私は幸いにして無事だったが、原爆の後遺症で苦しんでいる人も多い。もう二度と、このような戦争を繰り返してはならない。

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