当時、城山国民学校の教師をしていた。八月九日は体調を崩し、稲佐町(現在の曙町)の自宅で休んでいた。十一時近くになったころ飛行機の爆音が聞こえてきた。その後、強い爆風と同時に何かの破片が飛び込んできたので思わず畳に伏せた。気が付くと右腕など十数カ所にガラスの破片が刺さっていた。
静かになり、周囲を見回すと、木片やガラス片が飛び散り、足の踏み場もないほどのありさま。表へ飛び出して浦上方面を見ると、見慣れた建物や木々がなくなり、一面砂漠のようだった。
米軍が上陸してくるといううわさが広がったので、家族と一緒に稲佐山に逃げ、不安な一夜を過ごした。中腹付近から見た長崎の街は火の海。ガスタンクが炎上し、空まで真っ赤だったことを覚えている。
翌朝、自宅に戻ったが、学校のことが心配ですぐに城山方面へ向かった。学校付近の川には死んだ馬が浮かび、川辺ではけがをした人たちが水を求めながら次々に息絶えていた。
がれきに埋もれた道を踏み分け学校にたどり着くと、変わり果てた校舎が目に入った。門柱や教室は吹き飛ばされ、基礎のコンクリートだけが残っていた。運動場には、逃げ場をなくして校舎の二階、三階から飛び降りた女子生徒らの死体が転がっていた。
校舎の西側の防空壕(ごう)でようやく同僚の教師と再会することができた。後頭部の骨が見えるほどのけがを負った教師や、黒焦げで性別さえ分からなくなった者もいた。「まるで地獄絵のようだ」と思いながらも、気を取り直して校舎に向かった。
校長室は壁が崩れて残がいが八十センチほど積み重なっていた。「助けて…」といううめき声が聞こえたので、がれきをかき分けて声の主を捜したが女の力ではどうしようもなかった。後日、その声が校長と同僚の女性教師の二人のものだと分かった。教師二十八人、児童約千四百人が犠牲となった。
終戦後、生き残った児童を集めて授業を再開しようと「八幡神社に集まりましょう」と書いたビラを校区内に張って回った。ビラを見て十人くらいの子供たちが集まった。弱々しく汚れている姿がいじらしく、涙があふれて止まらなかった。
回を重ねるごとに集まる子供たちも増え、児童数は六十人を超えた。寒い冬が終わり卒業の春を迎え、十四人の卒業生を送り出すことができた。原爆の苦しみを乗り越えた卒業式は、涙に包まれた。
<私の願い>
原爆の悲惨さを多くの人に伝えることは生き残った者の使命だと思い、語り部として継承活動に取り組んでいる。核兵器廃絶の願いがかなうまで平和への思いを訴え続けたい。若い世代にも何ができるのかを考えてほしい。