当時、二十四歳。駆け出しの新聞記者だった私はあの日、長崎駅長室で駅長と雑談をしていた。突然、ピカッとせん光が走り、ドカーンという大音響。とっさに近くにあった大机の下にもぐり込んだ。構内の構造物が爆風を妨げたのか、幸い二人にけがはなかった。
「空襲で駅舎が狙われている」と思った私は、この場を離れようとすぐに外へ飛び出したが、目前に飛び込んできたのは、沈黙の場と化した光景だった。駅前の広場にはだれもいない。何もない。まるで、炎天下の砂漠のパノラマを見る思いがした。
どうすればいいのか、分からない。気が動転していたが、足は長崎市西坂町の自宅へと向かっていた。長女を身ごもっていた妻と長男と三人暮らしだったが、二人はあの日、母と祖母のいる郊外の城山町に疎開していた。
自宅周辺は火の手が上がり始めていたが、一人無我夢中で、夕暮れまで家財を運び出した。大村町(現在の興善町付近)にあった社屋も焼失、空襲の恐れもあり、動こうにも動けない。とりあえず、自宅近くの山手の防空ごうに避難した。防空ごう前は、気が狂ったように人が右往左往し「城山方面は全滅らしい」などの流言飛語が飛び交い、不安な夜を過ごした。
翌朝、城山町まで向かった。井樋ノ口から浦上駅付近の光景は、記憶の中に今も鮮明に残っている。見渡す限りのがれきの山。焼け焦げた人間や牛馬がごろごろと転がり、うっかりすると踏みそうになる。やけどを負い、うめき声をあげながらぼう然と歩く人、水を求めさまよう人、その人たちに表情はなかった。まさに、地獄絵だった。
城山町に着くと、一面焼け野が原。妻たちは焼け落ちた家のそばで寄り添うように座り込んでいた。一歳半の長男はたんすの下敷きになって即死。互いの無事を喜んだが、それもつかの間、言葉にならなかった。
住む場所を失った私たち四人は、諫早郊外の親せきを訪ねて暮らした。四人とも目立った外傷はなかったが、頭髪は抜け、歯茎から出血が続くなどの原爆症に苦しんだ。通院もしたが、その年、長男を追うように生後二カ月の長女、妻、母、祖母が次々に息絶えた。私自身、死ぬんじゃなかろうか。死ねば私が抱えている仏様はどうなる。不安な気持ちでいっぱいだった。
被爆した年に新聞社を辞め、その後、中学校で約三十年間、教職生活を送ったが、今でも原爆の後遺症に悩まされている。人生を大きく転換させられ、家族を失った悲しみ、無念さは決して消えることはない。(口加)
<私の願い>
世界各地で核兵器の開発、保有がますますエスカレートする現状に嘆かわしさ、無情さを感じる。原爆の悲惨な実相が忘れ去られようとする中で、唯一の被爆国として「非核、反核」のともしびは消してはならない。