当時十四歳、長崎市上野町の県立長崎工業学校の生徒だった。あの日、兵役で関東にいた兄が「休みがとれた」と帰郷、十二歳と六歳の妹二人も疎開先から戻っており、久しぶりに家族がそろっていた。
父は雑貨屋を営んでいたが、当時は休業中。十九歳の姉は朝から三菱長崎兵器製作所大橋工場(現在の文教町)に勤労奉仕に出ていた。母は午前十時半ごろ、近所に買い物へ。父と私と兄妹、四歳の弟の六人で、自宅の座敷で話をしていた。
爆音がしたと思った瞬間「ピカッ」と外から青白いような、真っ赤なような目もくらむ光が。直後に「ガガーッ」とものすごい音がして、周囲が真っ暗になった。後で分かったが、爆心地に面した玄関や店は爆風でつぶれ、座敷は反対側で倒壊を逃れていた。
やみの中から「じっとしとけ」と父の声がした。しばらくすると周囲が見え始めた。土ぼこりの中、家は無残に崩れていた。「逃げるぞ」と聞こえ、無事だった窓からはだしのまま、家族みんなで外に出た。
周囲の建物は壊れ、あちこちから火が出ていた。近所の人々は顔が引きつり、頭から血を流している人も。妹たちは「怖い」と泣き出した。ぼうぜんとしていたところへ母が現れた。髪を振り乱し、服もぼろぼろ。無事を喜ぶ間もなく、急いで一緒に逃げ出した。
途中「助けて、助けて」とかすかな声が。「かわいがってくれた近所のおばさんでは」と思ったが、父は「どうすることもできない」といった顔をしていた。そのまま逃げたが、今でもあの声が耳に残っている。
近くの防空ごうへたどり着いた。そこも危ないと稲佐山へ向かった。逃げ続けると徐々に人の姿が増した。服が血だらけの人や黒焦げで倒れた人、息絶えた乳児に放心状態で話し掛ける母親など、まるで地獄のような異様さだった。
稲佐山中腹で、姉の安否を気遣いながら眠れぬ夜を過ごした。市街は真っ赤に燃えていた。
翌朝、家族で防空ごうに戻った。周囲の建物は跡形もなく、防空ごうの中にけが人が苦しそうに横たわっていた。いたたまれず外に出ていたら、私を呼ぶ声が聞こえた。横を見ると姉がいた。うれしくて、家族みんなで抱き合って泣いた。
家族全員、奇跡的に被爆による外傷はなかったが、私はその翌日、誤って両足に大やけどをした。家族で郊外の親類の家へ避難した。父や姉はその後、何度も市内の家へ戻り、荷物を運び出したが、しばらくして姉は突然体調を崩し、被爆から二週間後帰らぬ人になった。母も四年後、この世を去った。
<私の願い>
悲惨な被害をもたらし、被爆後五十年以上たっても人を苦しめている核兵器は、必ず人類を不幸にする。きれいごとでなく、平和の尊さ、ありがたさを訴え、平和が続くよう、みんなで努力しなければいけない。